う。ただ面倒くさい位の心持から、消極的自由を保っていることも判っていた。彼にすれば、悪い心持はせず一年余知り合った朝子が、ひとりで、自由で、ちょっと面白くなくもなさそうなのに不図心づき、何か恋心めいたものを感じたのであろう。
 朝子にとっても、ぼんやり幸子の従兄《あに》として見ていた大平が、一人の男としてはっきり現われた点は同じであった。けれども、細かく心持を追ってゆくと、朝子にとって魅力あるのは大平という人自身ではなかった。大平があの夜以来、朝子の心の内にかき立てた感覚が、朝子を牽っぱるのであった。
 その意識は、桃畑の前の小さな家で、静かに幸子と話したりめいめいがめいめいの仕事をもちよって一つ灯の許にいる夜など、特に明瞭に朝子の心に迫った。
 朝子は、幸子を愛していた。彼女は幸子のどんな些細な癖も知っていたし、欠点も、美しき善良さをも知っていた。幸子が癇癪を起し、またそれが時々起るのであったが、とても怖い顔をして朝子に食ってかかる。そのときの、世にも見っともない幸子の顔付を思い出してさえ、朝子は滑稽と幸福とを感じ、腹から笑うことが出来た。
 大平について、自分はそのような、何を抱いているだろう!
 朝子は、自分の感情に愕きつつ考えるのであった。幸子といて、互に扶けつつ生活を運んで行くことに、朝子は真実の不平や否定の理由を心のどこにも持っていなかった。
 それだのに、その熱い力は異様に牽きつける。真空のように吸いよせる。朝子の全身がそこへ向ってひたすら墜落することを欲した。その発作のような瞬間、朝子は自分の肉体の裡で、大きな花弁が渦巻き開き、声なき叫びで心に押しよせるように切なく感じるのであった。
 或る午後、幸子が長椅子で雑誌を読んでいる縁側に籐椅子を出し、朝子が庭を眺めていた。隣家の生垣の際に一株の金木犀があった。やや盛りを過ぎ、朝子の方に庭土の上へまで、金柑色の細かい花を散り敷いてその涼しい香を撒いていた。その香は秋の土の冷えの感じられる香であった。
 朝子は、昼過、印刷屋から帰ったところであった。そこで年とった女工が、隣室で、
「ねえ、源さん、組合ってあるんだってね、そこへ入ると毎月二十銭だか会費納めるんですってねえ」
「はあ」
「そいで何だってえじゃあないの、どっかの工場でストライキでもすると、皆でお金出し合ってすけてやるんだってね」
「へえ」
「いくらでも出さなくちゃならないのじゃ、困っちゃうね」
 源さんと呼ばれた男が、気なさそうに、
「ええ」
と返事した。そんなことを、元気に幸子に喋ってきかせた。
 朝子の黙り込んだのを、幸子はただ疲れたのだと思ったらしい。長椅子の横一杯に脚をのばし、読んでいる彼女の楽な姿勢を、朝子は凝《じ》っと見ていたが、突然顔と頭を、いやいやでもするように振り上げ、
「ね、ちょっと、私二つに裂けちゃう」
 小さい、弱々しい声で訴えた。
「何云ってるのさ」
 膝の上へぽたりと雑誌を伏せ、笑いかけたが、朝子の蒼ざめた顔を見ると、幸子は、
「――どうした」
 両脚を一時に椅子から下した。
「ああ二つんなっちゃうわよ、裂けちゃう」
 朝子は背中を丸め、強い力で幸子の手を掴まえて自分の手と一緒くたにたくしこんで、胸へ押しつけた。
「どうした、え? これ!」
 幸子は、駭いて、背中を押えた。
「口を利いて! 口を利いて!」
 朝子は、涙をこぼしながら、切れ切れに、
「|暗い瞬間《ダアク・モウメント》!――暗い瞬間!」
と囁いた。

        九

 転退を欲する本能、一思いに目を瞑《つぶ》って墜落したい狂的な欲望、そういうものだけが、やがて朝子の心の中に残った。それ等の欲望が跳梁するとき、常に仲介者として、大平の存在が、朝子の念頭から離れぬ。朝子は、自分に信頼出来ない心持の頂上で、その日その日を送った。生活はほんの薄い表皮だけ固まりかけの、熱い熔岩の上に立ってでもいるように、あぶなかった。
 幸子の姉で、山口県へ嫁入っている人があった。
 春、葡萄状鬼胎の手術を受けてから、ずっとよくなかった。最近容体の面白くない話があったところへ、或る日、幸子の留守、電報が来た。幸子が帰って、それを見たのは四時頃であった。
「こりゃ行かなくちゃならない」
「勿論だわ」
「旅行案内、私んところになかったかしら」
 朝子は、今独りにされることは恐しくなって来た。
 幸子が帰って来る迄に、自分は今の自分でなくなってしまっている。――そんな予感がした。
 朝子は、
「私も行っちゃおうかしら」
と云った。
「一緒に?」
「うん」
「そりゃ来たっていいけど……」
 幸子は、旅行案内から眼をあげ、
「駄々っ児だな。まだ雑誌も出ないじゃないの」
と苦笑した。
「駄目だ、仕事を放っちゃいけない」
 校正がまだ終っていなかった。然しそれはどうにもなることであった。暫く考えた後、朝子は、
「私、行く」
と、椅子から立ち上った。
「今独りんなると碌なことをしないにきまってる。いやだわ」
 幸子には、いい意味でぼんやりなところがあり、朝子の動揺している心持を知っていても、実感としては、わからないらしかった。彼女は、
「いなさい、いなさい」
 いかにも年長らしくきめつけた。
「そんなこって、どうするのさ」
 それから間に合う汽車は九時十五分であった。幸子は手鞄に遽しく手廻りものをつめながらまた云った。
「第一、私の旅費さえかつかつなんだもの」
 銀座で見舞物を買ったりしているうちに、朝子は、変な不安から段々自由な心持になった。
 幸子のいないのもよい。自分の前後左右を通りすがる夥しい群集を眺めながら、朝子は思った。自分も苦しいなら苦しいまんま、この群集の一人となって生きればよいのだ。どんなに苦しくても、間違っても、人間の裡にあればこそだ。
 ところどころの飾窓の夜の鏡に、ちらりと、自分の歩いている姿が映った。その自分を、内心で刺している苦しさや、一瞬同じ灯に照らされ鏡にうつる様々な顔、ネクタイの色などに、朝子は暖い感情を抱いた。
 外国へ出発する名士でもあると見え、一等寝台の前で、熾《さかん》にマグネシウムの音がした。幸子の乗った車室の前のプラットフォームには、朝子の他四五人の男女がいるだけであった。窓から半身外へのり出し、幸子が訊いた。
「大丈夫?」
 朝子は、頬笑んで合点した。
「本当に?」
「本当に。――大丈夫でなくたって、大丈夫と思っちゃった」
「何のことさ、え? 何のこと?」
「いいのよ、安心して」
「着いたら電報打つけど、若し何かあったら」
 何心なく云いかけ、驚いて止めた拍子に、幸子は赤い顔をし、口に当てた掌のかげで舌を出した。朝子は、
「莫迦《ばか》ね」
 薄笑いしたが、段々おかしく自分もしまいに声を出して笑った。幸子は習慣的に、大平に頼めと云いかけたのであった。
 列車が動き出す、万歳《ばんざ》ァーイという声がプラットフォームの二箇所ばかりで起った。
 カーブにつれて列車が蜒《うね》り、幸子の振る手が見えなくなってから、朝子は歩き出した。すると、人ごみの中から、
「――しばらく」
 太いフェルト草履の鼻緒をそろえて、挨拶した者があった。
「まあ――」
 朝子と、同級の中では親しい部の富貴子であった。
「来てらしたの? この汽車?」
 富貴子は、ずば抜けて背の高い肩の間へ、首をちぢめるような恰好をした。
「母の名代を仰せ付かっちゃったの」
 車寄せへ出ると、
「あなた、真直ぐおかえり?」
 洒落《しゃれ》た紙入れを持ったクリーム色の手套のかげで、時間を見ながら富貴子が訊いた。
「――何だかこのまんまお別れするの厭ね、……銀座抜けましょうか」
「私かまわないけれど――いいの? あなたんところの小さい方」
「いいのよ」
 富貴子は朝子の手を引っぱって歩き出した。
「名代してやったんですもの、暫く位いいお祖母ちゃんになってくれたっていいわ。こんな折でもないと、私なんぞ、哀れよ。身軽にのし出すことも出来ないんですもの」
 夫が外遊中で、富貴子は二人の子供と実家に暮しているのであった。
 先刻は幸子と新橋の方から来た、同じ通りを逆の方向から、今度は富貴子と歩いた。富貴子は、
「あ、ちょっと待って頂戴」
と云って、途中で子供のために手土産を買った。そうかと思うと、呉服屋の陳列台の間を、ペーブメントの連続かなどのようにぐるりと通りぬけたりした。朝子は女学校時代のまんまの気持で、ずっと母となった富貴子の態度に、好意を感じた。糸屋の飾窓に、毛糸衣裳をつけた針金人形が幾つも並んでいた。朝子はその前へ立ち止った。
「ちょっと――いらないの?」
「なあに――まさか!」
 二人は、珈琲《コーヒー》を飲みによった。友達の噂のまま、
「結局一番いいのは、あなたなのよ、朝子さん」
 断定を下すように富貴子が云った。
「私みたいに一時預け、全く閉口。預ってる手前っていうわけか、いやに遠廻しの監視つきなんですもの」
「それも、もう十月の辛抱でしょう!」
 顎をひき、上眼を使うようにして合点したが、富貴子は急に顔を耀かせ、
「そりゃそうと、あなたの方、どうなのよその後」
と云った。
「何が」
「いやなひと! 相変らず?」
「相変らずよ」
「――うそ!」
「どうして? 私はあなたと違って正直に生れついているのよ」
「だって……ああ、じゃあ、そうなの、やっぱりあなたは偉いわね」
 およそその意味が想像され、朝子はぼんやり苦笑を浮べた。すると、云った方の当人が、今度はそれを感違いし、意外らしく、胸まで卓子《テーブル》の上へのり出して、逆に、
「――そう?――大道無門?」
と小声で念を押しなおした。
 朝子はそうなると、なお笑うだけで、パイをたべていたが、
「モダンだって幾通りもあるんじゃないの――少し話は違うけれど」
と云った。
 全く、個人的に自己消耗だけ華々しく或は苦々しくやって満足している部と、それが一人から一人へ伝わり、或る程度まで一般となった現代の消耗が身に徹《こた》えて徹えてやり切れず、何か確乎とした、何か新しいものを見出さなくてはやり切れながっている人たちもきっとある。朝子は自分の苦痛として、それを感じているのであった。後者に属する人は、強烈な消耗と同時に新生の可能の故に、自分を包括する。更にひろい人間は、群を忘れることが出来ない。例え、それに対して自分は無力であろうとも忘れることは出来ない。
 朝子は、考え考え珈琲を含んだが、不図、一杯の珈琲をも、自分達は事実に於て夥しい足音と共に飲んでいるのだと感じ、背筋を走る一種の感に打たれた。
 朝子は、やがてぶっきら棒のように、富貴子に訊いた。
「いつか――あなたとだった? 底知れぬ深さ、っていう詩読んだの」
「さあ、……そうかしら」
 彼女等のいるボックスを、色彩ではたくようにして入って来た若い一団に気をとられ、富貴子はうっかり答えたが、
「おや、もうあんな時間?」
 自分の手頸と、花模様の壁にかかっている時計とを見較べ、富貴子は、
「大変、大変」
と、油絵で薔薇を描いた帯の前をたたいて立ち上った。
 朝子もタクシーで、十一時過ぎ家へ着いた。

        十

『明るい時』と云うベルハアランの小さい詩集がある。その中に、底知れぬ深さ、その他朝子の愛する小曲が数多《あまた》あった。
 帰ってから、それを読み始め、朝子が眠りについたのは二時近くであった。電燈を消そうとし、思いついて、旅行案内をとりに行った。幸子の汽車が、静岡と浜松の間を走っている刻限であった。
 翌日は晴れやかな日で、独り食事などする静かな寂しさも、透明な秋日和の中では、いい心持であった。
 朝子は午後から、亀戸の方へ出かけた。市の宿泊所に用があった。かえりに彼女はセットルメントへ寄って見た。新たに児童図書館が設けられ、赤児を結いつけおんぶした近所の子供が、各年級に分れた卓子を囲んで、絵本を見たり雑誌を読んだりしていた。托児所の久保という女が朝子を以前から知っていて、案内をしてくれた。彼女はリューマチスで、二階の私室で
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