然し精神は昔の主脳者と共に死んだ。理事、その他役員が上流婦人ばかりなので、実権は主事、または庶務課長の諸戸吉彦にあった。女は女なりに、男は男でこの団体の内部を野心の巣にした。
雑誌部の仕事の性質と、自身の気質の上から、朝子はそれ等の外交や政治に関係出来なかったが、目につくことは多くあった。
社会事業の一として、内職に裁縫をさせていたが、工賃は市価よりやすかった。ちょっと不出来な箇処は何度でも縫いなおさせた。
「それじゃ、つまり、いくらでも払える人に、やすいお仕立物どころをこしらえて上げてるわけね。裁縫学校じゃない、内職なんだから、もう少しどうにかするのが本当ですよ」
朝子は、初めの時分、そんなことも云ったが、永年そこで働いている園子は、女学校長のように笑いながら、
「そんなこと云っちゃ、何も出来ませんですよ。これだってないより増しなんですから」
と、とり合わなかった。社会事業全般、ないより増しの標準でされているらしかった。
川島が叱られたということ、それも、この働き会の方に関係していた。
W大学へ通いながら、庶務に働いている川島が宿直のとき、小使室で、働き会の小谷という女としゃべっていた。そこへ、諸戸が外から帰ってきて、翌日川島を呼びつけ酷く詰問したのであった。
川島は、小心そうに眉の上に小皺をよせ、
「びっくりしちまった、――とても憤慨して罷めさせそうなことを云うんだもん」
と苦笑した。
「一体何時頃だったの?」
「八時頃ですよ」
伊田が朝子に、
「小谷さんて人、知りませんか」
と訊いた。
「さあ……河合さんなら知ってるけれど」
「ふ、ふ、ふ」
伊田も川島も笑った。
「――色白な人で……幾つ位だい? もうよっぽど年とってるんだろう?」
「三十位なんだろう」
弱気らしく川島が答えた。
「何でもないなあ、解ってるんだけれど……その時だって。話しでもすると思って、いやな気がしたんだろう」
「この頃馬鹿にやかましくなっちゃったね、こないだ矢崎さんもやられたらしいよ」
朝子は、
「でも、諸戸さん、一種の性格だな」
と云った。
諸戸は、女房子供を国許に置き、一人東京で家を持っていた。まるで一人暮しなのに、家の小綺麗なことは評判であった。現在彼等で経営主任のようなことをしている、そして将来彼のものになるだろう或る女学校長とは特別な関係で、半ば公然の秘密であったが、諸戸は近来、働き会の方の河合という女といきさつがあった、もう一人そう云う人が働き会の中にある。そんな状態であった。
のほほんで、その河合と連れ立って帰るようなこともするのに、時々川島の場合のようにぶざまな痙攣《けいれん》的臆病を現すのであった。
「気のいいところもある人なんだから、あなた、ただ叱られていずに、ちゃんと自分の立場を明かにして置くといいんですよ」
朝子は川島に云った。
「こちらがしゃんとして出れば、じき折れる人なんだから」
「憤ると、でも怖いですよ」
川島は、いかにも学生らしく、眼を大きくした。
「とてもでかい声で『君!』ってやられると、参っちゃうな。云うことなんか忘れちゃう」
「だから、あなたがそれよりもっとでかい声で『何でありますか!』って云えばいいのよ」
多分、相原の口添えで、川島を罷めさせることは中止になったらしいと云うことだった。相原は、諸戸と同郷で、ころがり込んでいるうち、府下のセットルメント・ワークを任され、今では一方の主になっている男であった。伊田と川島は異口同音に、
「――相原氏の方があれでましでしょう」
と云った。
「男らしい点だけでもましじゃないですか」
「今度だって、諸戸氏、直き廊下であったら、やあ、なんて先から声をかけるんだよ。とてもお天気やだね。何が何だか分りゃしない」
「相原さん、諸戸さんにゃ精神的欠陥があるんだって云ってました」
朝子は、段々いやな心持になって、
「もうやめ! やめ! こんな話」
と云った。
「第一相原さんが諸戸さんについて、そんな風にあなたがたに云えた義理ではない筈ですよ。葭町の芸者とごたごたがあった、その借金の始末だって諸戸さんにして貰ってるそうだし……第一、今の地位を作ってくれたのが諸戸さんじゃありませんか」
「――そうなんですか」
「こないだ、将来、万事は自分が切り盛りするらしい口吻でしたよ、でも……」
「若し、相原氏が、反諸戸運動を画策してるんだったら、私は見下げた男だと思う」
朝子は、亢奮を感じた顔付で云った。
「諸戸さんにだって、卑怯なところもけちなところもあるが、一旦自分の拾った者はすて切れないというところがあります。そうしちゃ、飼犬に手を咬まれているんだけれど」
諸戸は弱気で、どこか器のゆったりしたところがあり、相原は表面豪放そうで、内心は鼠の歯のように小さくて強い利己主義者であった。相原を食客に置いた時分から、十年近く、そういう気質の違いや、共通の利害が諸戸にとって微妙な心理的魅力であると見え、少なくとも表面、相原は不思議な感化を諸戸に持っているのであった。
彼等はトランプをしたり、朝子が最近買ったフランスの画集を観たりして、十一時近く帰った。玄関へ送って出ながら、朝子は冗談にまぎらして云った。
「まあ、なるたけお家騒動へは嘴を入れないことね。私共の時代の仕事じゃないわ」
六
朝子が、買物に出ようとして玄関に立っていた。日曜であった。そこへ大平が来た。
「――出かけるんですか」
彼は洋杖《ステッキ》をついたまま、薄すり緑がかって黄色いセルを着た朝子の姿を見上げた。
「一人?――もう一本は?」
幸子と自分のことを、朝子は神酒徳利と綽名していた。
「本とお話中でございます。――でも直ぐかえりますから、どうぞ……お幸さん道楽の方らしいから大丈夫よ」
朝子は草履をはき、三和土《たたき》へ下りて、
「さ」
大平と入れ換わるようにした。
「――どの辺まで行くんです」
「ついそこ――文房具やへ行くの」
「いい天気だから、じゃ私も一緒に行こうかな」
「そう?――」
そこに女中がいた。頭越しに朝子は大きな声で、
「ちょっと」
と幸子を呼んだ。
「大平さんがいらっしゃってよ。ここまで来て」
「何さわいでいるのさ」
幸子が出て来た。
「どうも声がそうらしいと思った」
「大平さんも外お歩きになるんですって。あなたも来ないこと? 少し遠くまで行って見ましょうよ」
「来給え、来給え、本は夜読める」
「本当にいい天気だな」
幸子は、瞳をせばめ、花の終りかけた萩の上の斑らな日光を眺めていたが、
「まあ、二人で行っといで」
と云った。
「外もいいだろうが、障子んなかで本よんでる心持もなかなか今日はわるくない」
大平と連立ち、朝子は暫くごたごたした町並の間を抜け、やがて雑司ケ谷墓地の横へ出た。秋はことに晴れやかな墓地の彼方に、色づいた櫟《くぬぎ》の梢が空高く連っているのが見えた。線香と菊の香がほんのり彼等の歩いている往来まで漂った。石屋の鑿《のみ》の音がした。
彼等は、電車通りの文房具屋で買物をし、菓子屋へよってから、ぶらぶら家へ向った。
「――十月こそ秋ね……お幸さんも来ればよかったのに」
「住まずに考えると、ちょいとごみごみしているようで、小石川のこちら側、なかなか散歩するところがあるでしょう」
「古い木があるのもいいのよ」
大平は、やがて、
「このまんま戻るの、何だか惜しいなあ」
と、往来で立ち止った。
「どうです、ずうっと鬼子母神の方へでも行って見ませんか」
「そうね――そして、またあのお蕎麦《そば》たべる?」
去年の秋、幸子と三人づれで鬼子母神の方を歩き、近所の通りで、舌の曲る程辛い蕎麦をたべた。
「ハッハッハッ、よほど閉口したと見えて、よく覚えてるな――本当に行きませんか。さもなけりゃ、私んところへこのまま行っちゃって、御馳走をあなたに工面して貰ってから幸子君を呼ぶんだ」
その思いつきは朝子を誘った。
「その方が増しらしいわ……でも、お幸さん心配することね」
「なあにいいさ! 本読ましとけ。――心配させるのも面白いや」
「――ここにいりゃ何でもないのに」
「いたら、まいてやる」
大平は、いやに本気にそれを云った。
朝子は、家の方へ再び歩き出した。大平も、自分の覚えず強く発した語気に打たれたように暫く口をつぐんで歩いた。
桃畑の角を曲ったら、門の前を往ったり来たりしている幸子の姿が見えた。朝子は、その姿を遠くから見た瞬間、自分達が真直ぐ還って来たことを心からよろこんだ。
「お待ち遠さま」
「何だ! それっくらいなら一緒に来りゃいいのに」
大平が渋いように笑った。
「君が案じるって、敢然と僕の誘惑を拒けたよ」
「ふうん」
先立って門を入りながら、幸子は、気よく、少し極りわるそうに首をすくめ、
「――今どこいら歩いているだろうと思ってたら、自分も出たくなっちゃった」
茶を飲みながら、朝子は大平が往来で提議したことを話した。
「――頼みんならない従兄よ、あなたがいれば、まいちゃうっておっしゃるんだから」
「そうさ、素介という男はそういう男なの、どうせ。――アッペルバッハが、ちゃんと書いている」
幸子は、さっぱりした気質と、その気質に適した学問の力とで釣合よく落つきの出来た眼差しで朝子と素介とを見較べながら云った。
「従兄の悲しさに、あんたも私も、どうもサディストの型《タイプ》に属するらしいね。アッペルバッハの新しい性格分類法で行くと。だから、マゾヒストの型で徳性の高い朝っぺさんにおって貰って調和よろしいという訳さ。私なんか、同じサディストでも、徳性が高いからいいけれど、この素介なんぞ――」
「――君に解ってたまるもんか。――第一そのアッペル何とかいうの、ドイツの男だろう? ドイツ人の頭がいいか悪いかは疑問だな。フランス人の警句一つを、ドイツ人は三百頁の本にする。そいだけ書かないじゃ、当人にも呑込めないんじゃないかな」
「頭のよしあしじゃない、向きの違いさ」
アッペルバッハの説は、マゾヒスト、サディストの両極の外に男性的、女性的、道徳性、智能性その他感情性などの分類法を作り、性能調査の根底にもするという学説であった。朝子は、
「政治家になんか、本当にサディストの質でなけりゃなれないかもしれない」
と云った。
七
夕方近く、幸子が教えたことのある末松という娘が、も一人友達と訪ねて来た。何か職業を見出してくれと云うのであった。
「経済上、仕事がなけりゃ困るんですか」
「いいえ、そうではありませんけれど……」
「家に只いても仕方がないというわけですね――で? どんな仕事がいいんです?……何に自信があるんです?」
末松は、並んでかけた椅子の上で、友達と互に顔を見合わせるようにし、間が悪そうに、
「何って……別に自信のあるものなんかありませんけれど――、若し出来たら、雑誌か新聞に働いて見たいと思います」
「そういう方は、ここにいる朝子さんに持って行けば、何かないもんでもないかもしれないけれど……ジャアナリストになるつもりなんですか? 将来」
そこまで考えてはいなかったと見え、娘達は身じろぎをして黙り込んだ。幸子は、自分まで工合わるそうに微笑を顔に浮べ、暫く答を待っていたが、やがて学生っぽい調子で、
「――その位の気持なんなら、却って勉強つづけていたらどうなんです」
と云った。
「ひどい不景気だから、きっといい口なんぞありませんよ。あったにしろ、そんな口にはあなたがたより、もっと、今日生きるに必要な男が飛びついています」
不得要領で二人が帰った。窓際へ椅子を運び、雑誌を繰りながらそれ等の会話をきいていた大平が、体ごと椅子をこちらへ向け、
「ふうわりしたもんだな」
好意と意外さとをこめて、呟いた。
「会社に働いている連中も、ああいう娘さん達のワン・オブ・ゼムか」
「簿記や算盤が達者なだけ増しかもしれない」
「然し、変ったもんだなあ」
大平が、真面目な追想の表情を薄い煙草色の細面に現わして、云った。
「
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