台ばかりあがりましたから……どうぞ」
金庫を背にした正面の机の前から、嘉造が、入って来る朝子に挨拶した。朝子と同じ年であったが、商売にかけると、二十七とは思えない腕があった。
「おい、工場へ行っといで」
「――二階――よござんすか」
濃い髪が一文字に生えた額際に特徴ある頭を嘉造は、
「どうぞ」
と云う代りに黙って下げた。
自分の腕に自信があって、全然情に絆《ほだ》されることなく使用人を使うし、算盤を弾くし、食えない生れつきは商売を始めた親父より強そうな嘉造を見ると、朝子はいつも一種の興味と反感とを同時に覚えた。朝子は、団栗眼《どんぐりまなこ》の十二三の給仕が揃えてくれた草履に換え、右手の壁について階段を登った。
階段は、粗末な洋館らしく急で浅い。朝子の長い膝が上の段につかえて登り難いこと夥しかった。片手に袱紗包をかかえ、左手を壁につっ張るようにし、朝子は注意深く一段一段登って行った。三分の二ほど登ると社長室の葭戸《よしど》が見えた。葭戸を透して外光が階段にもさして足許が大分明るくなった。
何の気もなく、朝子はバタバタと草履を鳴らし若い女らしく二三段足速に登った。
その途端に、さっと葭戸が開き、室内から十七ばかりの給仕女が、とび出したとしか云えない急激な動作で踊り場の上へ出た。その娘は素早く朝子をかわして、ドタドタドタ、階下へ駈け降りた。
朝子が思わずもう誰も見えない暗い階段の下の方を見送っていると、あから顔の社長は、葭戸と平行に、書棚でも嵌め込む積りか壁に六尺に二尺程窪みがついている、その窪みの処から、悠《ゆ》っくりさり気なく室の中央へ向って歩き出した。
朝子は何となし厭な心持がした。
二階で親父が若い給仕娘をその室から走り出させたりしているのを、嘉造は知っているのだろうか。朝子は二重に厭な心持がして、社長室のリノリウムを踏んだ。
建坪の工合で、校正室は、社長室を抜けてでないと行けなかった。朝子は、黙って軽く頭を下げ、通りすぎた。磯田は、机のこちら側に立って、煙草に火をつけかけていた。彼は、下まぶたに大きな汚点《しみ》のある袋のついた眼を細め、マッチを持ち添えスパスパ火をよびながら、
「や」
と曖昧に声をかけた。
校正室では備えつけの筆がすっかり痛んでいる。
朝子はベルを鳴らして新しいのを貰い、工場から持ってきたばかりで、インクがまだ湿っぽい
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