分、こんなかから抜いてあるんでしょうか」
 むっくりした片手で小さい算盤《そろばん》の端を押え、膨《ふく》らんだ事務服の胸を顎で押えるようにし、何か勘定している矢崎は、聞えないのか返事をしなかった。伊田は暫く待っていたが、肩を聳やかし、また書き出した。
 朝子は、新聞に西洋鋏を入れながら、声を出さず苦笑いした。笑われて、伊田は、耳の後をかいた。二日ばかり前、或る対校野球試合が外苑グランドであった。伊田は、午後から帯封書きをすてて出かけて行った。自分にそんな興味も活気もなく、毎日九時から四時までここに坐って日を過す外、暮しようのない矢崎は、それでも他の者がそんなことをすると、甚だ不機嫌になった。彼は、それを根にもって一日でも二日でも、口を利かなかった。
「どの位断って来ました」
 朝子が伊田に訊いた。
「今度はそんなに沢山じゃありません。五十位なもんでしょう」
「去年からでは、でも千ばかり減りましたね。……田舎のひとだって、この頃は婦人雑誌どんどんとるんだから、断るのが自然ですよ。比べて見れば、誰だってほかの雑誌がやすくって面白いと思うんだもの」
 一円本の話が出て、それに矢崎も加わった。
「娘がやかましく云うんで、小学生全集をとっているんですが、一体あんなものはどの位儲かるもんでしょうな……」
「社でも何か一つとってくれないかな、そうすると僕たち助かっちゃうんだが」
「矢崎さん、いかが? それ位のこと出来ませんか」
「さあ」
 伊田が、
「金欠か」
と呟いた。
 いきなり朝子が、
「ああ、矢崎さん、お引越し、どうなりました」
と尋ねた。
「いよいよ渋谷ですか」
「ええ。今月一杯で五月蠅《うるさ》いから行っちゃおうと思ったんですが……来月中には移ります」
「須田さんその後どうしていらっしゃいます?」
 矢崎は、厭な顔をして、
「この頃出かけないから」
と低く答えた。
「ここ罷《や》めることは、もう決ったんですか」
「決ったでしょう」
 黙っていたが朝子の心には義憤的な感情があった。
 須田真吉は、編輯部の広告取りをしていた男で、一風変った人物であった。頭の一部が欠けているのか過剰なのか、度外れなところがあって、或る時は写真に、或る時は蓄音器に、最近はラジオに夢中に凝った。ラジオのためには金銭を惜しむことを知らなかった。種々道具をとり集めラウド・スピイカアに趣味の悪い薄
前へ 次へ
全29ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング