ル二銭買っとくれよ、おっかちゃん」
とねだった。
「…………」
「ね! 一度っきり、ね?」
「駄目だよ」
「なぜさ――おととい玉子あんだけ売ったんじゃないか」
「またそんなこという! こんな雨が三日も続けばあのお金でやっとこせじゃないか」
一太は黙り込んだ。一太は金のないという状態の不便さをよく理解していた。金がないと云われれば一太は飯さえ一膳半で我慢しなければならなかった。――
一太は口淋さを紛すため、舌を丸めて出したり、引こませたり、下目を使って赤くぽっちりと尖った自分の舌の先を見たりし始めた。母親は、縫物の手を休めず、
「ほんとにねえ」
と大きく嘆息したが、
「お父つぁんさえいてくれれば、こうまでひどい境涯にならずにいられたろうにねえ。お前だって人並みに学校へだってやれるんだのに……こうやって母子二人で食べるものを食べずに稼いだところで、この不景気じゃ綿入れ一つ着られやしない」
一太は困ったのと馴れているのとで別に返事をしなかった。
「私ほど考えれば考えるほど不運な者あありゃしない。親も同胞《きょうだい》もない身で、おまけに思いもよらないこんな貧乏するなんて……本当にお前さえいなけりゃまた身の振り方もあろうが。――一ちゃん。しっかりしてくれなけりゃお母さん、何の望みで生きてるのか分りゃしないじゃないか」
母親の繰言に合の手を打ってビシャビシャビシャビシャ冷たい雨だれの音が四辺《あたり》に響いている。一太は、ビシャビシャいう雨だれも、母親の怨み言もきらいであった。雨が降れば、きっと根本まで腐りそうなその雨だれの音と、一太によく訳の分らない昔のよかった暮しのことなど聞かされる。ああ、だから一太は雨っぷりが厭だ。けれども、本当にいつか、そんな母親の云うような縮緬《ちりめん》の揃の浴衣で自分が神輿《みこし》を担いだことがあったのかしら。番頭や小僧が大勢いる店と云えば、善どんと小僧とっきりいない米源よりもっと大《でか》い店だろうが、そんな店が自分の家だったのだろうか?
ぼんやり思い出せぬ思い出を辿る一太の耳に、猶々つづいて母親の声がする。だんだん途切れ途切れになり、急に近く大きく聴えたかと思うと、スーッと微になる。いきなり、
「一ちゃん」
一太ははっとしてあっちこっち見廻した。
「ちょっとこっちへおいで」
「ほら、一ちゃん、おばさんが何か御用だよ」
一太は
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