そして、今の有様の体を少しでも楽にさせるために、ぴったり背中を地面につけて、死んだ魚の様な形をとったのである。
 彼は激動の後の静かな心持で、もう恐らくは死ぬまで会う事の出来ないだろう、今飛び去った雌鴨の事を思い出して居た。
 此の、ほんの一寸の前までの、彼の幸福彼のよろこびが、今斯うやって命まで投げ出して醜い姿になって居る自分の物だったのだと云う事は、自分ながら信じられない事である。
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「ああ俺は幸福だった。
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 彼は溜息を吐いた。
 そして、彼那に愛しながら、此の唐突な別れをした今になっては、余り明かに浮んで来ない雌鴨のあの小さかった頭、眼、細かった頸を思い出して居たのである。
 其の薫わしい、若々しい追想は、少なからず彼の心を柔らげた。
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「ああ、俺は運が好かったのだ。
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 さっきまで、彼の様に自分に深い恵みを垂れて居た神様は、此れから先も、決して自分には辛くばかりは御あたりなさるまいと云う事を、段々彼は感じ始めた。彼の可愛い雌鴨も、自分が又幸福な日に会うまでは、生きてどこかに自分を覚えて居るだろうと云う事は、空だのみではない様に思えたのである。
 彼はもういくらもがいても無駄な事であるのを知って居る。
 駄目だと知りつつ苦しさをいよいよつのらせるほかしない身もがきをするでもない。
 彼は、右の片足をしっかり捕えて居る繩の条《す》じ目を、ぼんやり痛く感じながら、静かに目を瞑って仰向きになって居るのである。
 斯うして居るうちに、夜は百年昔と同じに、彼の幸福であったきのうの朝が明けた通りに、段々明るんで来た。
 四辺の万物は体の薄黒色から次第次第に各々の色を取りもどして来、山の端があかるみ、人家の間から鶏共が勢よく「時」を作る。
 向うの向うの山彦が、かすかに「コケコッコ――ッ」と応える。
 目覚め、力づけられて活き出そうとする天地の中に、雄鴨は、昨日の夜中と同様に、音なしく仰向き卵色の水掻きをしぼませ、目を瞑って、繩に喰いつかれて居るのである。
 彼の薄い瞼一重の上に、太陽は益々育ち始めた。



底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年8月4日作成
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