に向ってお礼心の羽ばたきをした。
四つの厚い羽根が空気を打つバッサ、バッサ、バッサと云う音と、喉をならす、稍々《やや》細く切れぎれな声と、低いうねうねした声とは混り合って、靄のほの白いはるかにまで響いて行ったのである。
所々崩れ落ちて居る畔路を、ときどき踏みそこなって、ころがりそうになったり、大狼狽な羽ばたきをしたりして、先へ先へと歩いて行った雌鴨は、フト何か見つけたらしく小馳りに後戻りして来て、あわただしくクワッ、クワッと叫び立てた。
[#ここから1字下げ]
「オヤ、一寸御覧なさい何だろうかしらん、あすこに光ってるのは……?
ね? 見えるでしょう ホラ! 彼那にキラキラして居る――
「どれ? どこに光ってるって?
ちっとも私の所からじゃ見えない。
「駄目ねえ、じゃもっと此方へ来て御覧なさいよ。
ほらね、見えるでしょう?
御覧なさい、彼那に光ってるじゃあないの。
[#ここで字下げ終わり]
雄鴨は、危険なものに立ち向った時に、いつでもする様に体をズーッと平べったくし、首丈を長々とのばして、ゆるい傾斜の畑地の向うに、サラ……と音を立てて行く光ったものを見つめた。
[#ここから1字下げ]
「なあんだ、
フフフフなあんだお前水だよ。水が流れてる丈だよ
すっかりおどかされちゃった。
「まあそうなの? 流れてるの、水が?
ほんとにいやあね何だろう私。
そんならよかったわねえ私は又何かと思った。
「うまい工合だね一寸遊んで行こうよ、好いだろう。
「ええ、丁度おあつらえだわ。
[#ここで字下げ終わり]
二羽は、重い羽音を立てて飛び込んだ。
サラサラした水は快く彼等の軟い胸毛を濡して、鯱鉾《しゃちほこ》立ちをする様にして、川床の塵の間を漁る背中にたまった水玉が、キラキラと月の光りを照り返した。
バシャバシャと云う水のとばしる音、濡れそぼけて益々重くなった羽ばたきの音、彼等の口から思わずほとばしり出るよろこびの叫び。
其等の種々な音をにぎやかに立てながら、彼等は堤の草の間をほじったり、追っかけっこをしたりして、四季の分ちなく彼等には無上のものである水を、充分にたのしむのであった。
[#ここから1字下げ]
「ああさっぱりした。何と云っても水ほど好い気持なものはないねえ。
[#ここで字下げ終わり]
雄鴨は、青い色に美くしい頸を曲げたり延したりして羽根に艷をつけながら云った。
[#ここから1字下げ]
「ほんとにねえ。まるで生れ換った様だこと。
[#ここで字下げ終わり]
雌鴨も、連れの傍によって、白い瞼を開けたり、つぶったりしながら、一生懸命に身繕いをし始めた。
可愛いく胸を張り腰を据えて、如何にも優しい身ごなしで、油をぬったり、一枚一枚の羽をしごいたりして居る雌鴨の様子を、わきからだまって見て居るうちに、雄鴨はどうしても離れられない様な愛着を感じた。
彼には、その体つきの、キリリシャンとした所から、真黒い眼が割合になみより小さいのも気に入って居た。
[#ここから1字下げ]
「ほんとに好い形恰だ。けれ共どうもちっとあれが気になる。
[#ここで字下げ終わり]
雄鴨は、割合に美くしくない相手の羽根の模様に、仔細らしく小首を傾けたけれ共その、羽根の黒いポツポツが順序よく定まった大きさについて居ないと云う事は、却って全体の姿に若々しい不釣合、愛嬌と云う様なものを添えるばかりであると思いつくと、彼にとっては、羽の模様がほかのと異うと云う事が、尊い只彼女のみの持って居る宝物ででも有るかの様に感じられて来たのである。
彼は晴ればれした心持で、可愛い連れの身繕いを手助[#「助」に「(ママ)」の注記]ってやったり、羽根をしごく次第《ついで》に一寸強く引っぱって見たり、擽って見たりした。
二羽は充分めかし込んだ。
出来る丈美くしくなった。
そして又、意気揚々と歩き出したのである。
[#ここから1字下げ]
「どっちへ行きましょうね。
「向うへ行って御覧、うんそうそうまっすぐの方へ。
[#ここで字下げ終わり]
二つの影は、かたい地面の上に縺れ合った。
[#ここから1字下げ]
「良い晩だわねえ。
「ああほんとにさ。一つ飛んで行こうか、
随分好い気持だろうよ。
「さあ、歩いた方がいい事よ此那好い虫が居るんだもの。
あら! まあ御覧なさい、早くいらっしゃいよ。
何て居るんだろう。
[#ここで字下げ終わり]
茶っぽい小虫の群が、草の根元にかじかんだ様になって居るのを雌鴨は見つけたのである。
彼女は思い掛けない発見物にすっかり心を奪われて仕舞った。
そして雄鴨とはまるで、何の関係もなく独りでズンズンと、わき道へそれて行って仕舞った。
後に一羽とりのこされた雄鴨は「ああ危いなあ」と思わずには居られなかった。
[#ここから1字下
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング