いう論文は、近代文学グループのあやまりを最もむき出しに示している荒正人氏の文筆活動をとり上げて、批評しようとしたことは、適切であったと思います。しかし、あの論文の書きかたは技術的に理論のアクロバットであったし、第三者に対しても論点を明瞭に示して、問題を正しく会得させてゆくために必要な客観的叙述にかけていたのは残念でした。文学評論が、論争の当事者にだけわかり、その感情を刺激しあうような楽屋おちのものであることは、民主主義文学運動の課題としてかえりみられなければなるまいと思います。
『黄蜂』という雑誌に野間宏という人の「暗い絵」という作品が連載中です。ブリューゲルの暗い、はげしい、気味わるい魅力にみちた諷刺画「十字架」の画面の描写からはじまって、ちょうど一九三七年ころの京大に、かろうじて存続していた学生運動のグループと、それに近づき接触しながら、一つになりきれずにさまざまの問題を感じている深見進介という青年を主人公としたものです。この作品は、さっきから触れてきている社会発展の歴史と個人との有機的な関係の問題の究明をテーマとしている点で注目をひかれました。この野間という作者が、とくに興味のあるのは、その課題を、高見順のように主観的にも『近代文学』のグループの傾向のように一面的に偏執的にも扱っていず、ずっと拡大され、客観的に基礎づけられた社会史観を土台として、しかも、やはり、個人の確立、自己完成の欲求の問題を主人公深見進介の苦悩の中心課題としている点です。この作品において、野間という作者は、そのころの左翼の学生運動を貫いていた日本に関する歴史的展望――「プロレタリア革命への転化の傾向をもつブルジョア民主主義革命の到来」の意味を十分理解して書いているし、その左翼グループから歴史的見とおしの上で対立して学生消費組合の運動の方向へ移り、組合主義、経済主義に陥っていってしまった一団の学生たちのグループについても、正確に本質をつかんで描いています。学生の食堂の高利貸爺のこと、貧しい深見の父の一生、そして、貧しい大学生でコンニャクおでんのおとくいである主人公のこと。これらも作者は、現代社会で金というものが、人間精神をいためつけ、畸型にしている、その自覚から感じる羞恥、穢辱感の憤りと苦しさとして描き出しています。非常にこくめいに、ブリューゲルの絵の方法のように、ほとんどサディスティックに描いている。「自己完成とその不断の努力のあとを自分の肉体に刻みつける」という言葉で考えている主人公をとおして、作者は、すべての情景、思索、行動をいつも深見進介の肉体、感覚を通じてのみ作品の世界のリアリティーとしてもちこんできています。こういう手法もこの作品の特長だと思います。深見進介の眼の虹彩のせばまるところに光りがあり、情景があり、その虹彩の拡がるところに闇がある、そんなふうに執拗に深見の体にくっついてはなれず、その感情を通じてだけ形象の世界を実在させている。その意味で作者の手法は、そういう主人公の生活を見つめようとするテーマと一致しているといえるでしょう。深見進介は、急進的な学生のグループに接触しつつ「そのグループしかゆくべきところ、生きるべきところはないと知りつつ、彼の全機能でそれを感じつつ、一つにかさなりあえず」苦しんでいる。それは自分の政治的認識が不足だからだとも思うが、なお「心がふれるあつく暗い抵抗のようなものを感じ」それは一人自分だけが感じているのではなく「日本の心の尖端である」と感じる。自己完成ということは、日本ブルジョア・デモクラシーの完成という点とかかわりあった課題であると理解し「科学的な操作による自己完成の追及の堆積」を決心している青年が描かれているのです。
ここでこの作品が注目する価値をもっている点がはっきりしてきます。作者は、主人公が、自己完成を、主観的なおさまりや、観念の枠で形づけようとせず「科学的操作による自己完成の追究の堆積」と理解していることをいっています。科学的ということは、自然科学ではありえないから、社会科学的の意味でしょう。いわゆる文学的にむずかしく表現されているけれども、つまり社会科学的な思索、判断、それによる人間行動の曲折を通じて、より真実に迫りつつゆく社会のなかの自分の足どり、過程のうちに、自己完成というものを理解するというわけではないでしょうか。
こう解釈しても大してまちがいないと思うのは、この作品で主人公の深見進介が、なにかのモメントで、いつもくりかえし自省している一つのことがあります。それは、自己完成の願望の純粋な発露と、保身的な我執との間を、自身にたいしてきびしく区別しようとしていることです。これは、関心をひかれる点です。『近代文学』の個の主張傾向のうちには、この大切な鋭さ、この感覚が全然欠けていて、目が内に
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