どういうことなのでしょう。
 いままでジャーナリズムの上に作品を発表しなかった人々が書きはじめた、ということをカムバックといわれているようです。しかし、私どもが文学の問題として研究したいのは、これらの作家が、ただジャーナリズムにおいて執筆依頼をうけるもののリストの中にカムバックしたものか、それとも、文学そのものにおいて再出発する可能を示したという意味でのカムバックであるのかという点です。全部が全部ジャーナリズムの上へカムバックしただけだということは大ざっぱすぎる表現でしょう。しかし、非常に大きい割合で、ジャーナリスティックにカムバックしただけの作家が目立ちます。
 その理由の一つは、ブルジョア・ジャーナリズムの「商売」の必要ということです。一定の紙面をふさぎ、よませなければならないのに読ませるものがない。新登場をもって賑わす新人がいません。しようがない。そのうち文化上の戦争責任追及もうやむやになったし、日本の保守傾向の存在できる幅のひろさも見えはじめたことから、頼んでいる人自身が尊敬もしていない、けれどなにしろ読む人がいるのだから、と書かせる。そういうことでジャーナリズムに作家たちがずるずるとカムバックしました。
 ある一つの綜合雑誌の目次を見たら、論説に羽仁五郎、細川嘉六、信夫清三郎、平野義太郎という人々が並んでいるのです。その同じ雑誌にどういう小説家が並んでいるかといえば、永井龍男その他丹羽文雄という工合です。今日の文学が評論界、思想界との間に相当のギャップを持っていることがはっきり見えているわけです。こういうふうにして既成作家のカムバックということにしても文学的カムバックが比較的少なくて、ジャーナリスティックなカムバックが主流をなしているその事実は、さきにふれたように日本の民主主義の今日における一つの特色ある様相です。作家自身としての問題、文学の問題としてみれば、それは結局、先ほど戦争犯罪と文学について中野重治が批判していたように、私どもが自分の心の中に自分の発展方向として、戦争時代に文学者としての自分の生きてきた生きかたをほんとうに突きつめてみるということが、まだ十分にやられていないということです。その重要な発展のモメントを、文学的に、浅薄器用にあつかって、お茶を濁している傾きがあります。
 阿部知二は南方経験を作品に書きました。「死の花」という作品が『世界
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