この第四号になって、はじめて『新日本文学』が発行されている甲斐があらわれたようにうれしい気がしました。中野重治の「批評の人間性」という論文のほか、平田次三郎「島木健作論」、北鬼助「平林たい子論」、中川隆一「丹羽文雄論」などがのりました。三つの論文はけっしてながいものではありません。また、堂々たる大評論でもないけれど、この三つの論文を『新日本文学』がのせることのできたよろこびは、真実のこもった、ふかいものです。率直な感想をゆるしていただきますが、たとえば『新日本文学』三号までにのったような評論は、指導的な意味をもったものもあり、さもなければ各人各様がおもしろいところなのかもしれないけれども、民主主義文学の諸問題の各面をそれぞれに担当して、ずっとよんで綜合してみれば、なるほど、民主主義文学の発展のためには、これこれの問題があると、しっくり会得できるというふうな意味での客観的な多面性又啓蒙性を示したものではありませんでした。小田切さんは小田切さんでいいたい話題を、佐々木さんは佐々木さんでいいたい点を、そして、岩上順一さんや除村吉太郎氏はまた氏としての話題の運びかたです。今日新しく民主主義社会への展望とともに自身の文化建設の課題として文学をとりあげはじめた人々には、三つを順ぐりよんでいっても一括してまとまった判断をうけとりにくく、文学の美しさで鼓舞されるという感動もうけられなかったろうと思います。小田切さん、佐々木さんなどの論文は、御本人たちとして、自分の云いたいことを云いたいように云っていらっしゃる。云いたいことを云いたいところからめいめい云う、つまり、主題の歴史的な究明や展開なしに読者の理解を眼目におかずそれを書く自分の熱意にだけしたがって書いてゆく、それが民主主義的な文学運動であるかのようです。ところが、民主主義文学運動というのは、云いたいことを云いたいところから云いたいように云うというような素朴なものではないんです。民主主義文学の諸問題、諸探求、それは、書く人のさまざまの個性的ニュアンスで変化をもち多様化しつつ、けっして単なる主観的発言ではなく、民主主義文学というものがこの歴史の中でもっている客観的な本質に即して必然とされる客観的な諸特質が研究され、綜合され、私たちにとって共通な文学の成果としてもたらされてこなくてはならないものです。
第四号に作家論を書いている三
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