なロシア文学史には名の出ていないようなロシア生れの批評家シェストフ(この人は一八九〇年代の最も陰気な反動時代、「ナロードニキ」の敗北と政府の悪辣な主脳者ポベドノスツェフの弾圧によって、ロシアの知識階級がすべての急進的実践に対して自己破滅を感じ、歴史の発展を絶望した時代にパリへ移住してしまい、恐らく現在ではソヴェト同盟の社会的建設、哲学、文学における成果の価値をも正当に評価し得ないであろうと思われる)の虚無的著作を、非常なとりまきでかつぎあげながら持ちこんできた。落付いて観察すると、これはまことに奇妙なやりかたというべきではないだろうか?
 最初叫ばれた文芸復興という一般的な要求にしろ、私たちは、社会生活の実際の条件の中に新しく文学を豊富にし創作を旺盛ならしめる可能性をもった条件が積極的な努力でつくられて行かなければ、それは実現し難いものであることを理解している。これは、一人の作家、マクシム・ゴーリキイの発展の歴史を見るだけでも明瞭な事実である。しかし、文学的要因にふれ得ずに、純文学の復興を叫んだ作家たちは同じ誤りを犯しつつ、不安の文学を提唱したのであった。
 深田久彌のように、作品の上ではある簡勁さを狙っている作家も、この問題に対しては、自分が日常生活ではスキーなどへ出かけつつ、かたわら不安の文学について云々している矛盾の姿を自覚することができなかったのである。
 不安の文学提唱、その流布の浅薄な性質については、春山行夫などが、言葉に衣をきせずに批判した。彼は、現在フランスでは左翼的な立場を明らかにしているジイドの発展性を見ずに不安の文学の代表者のようにかついだり、五十三年も前に死んだドストイェフスキーの作家としての特殊性、歴史性を無視して今日の日本でとやかくさわいでも、それは現実の問題として日本のブルジョア作家の生活とかけはなれていて、いまさら文学の新しい力となり得るものでないことなどを指摘したのであった。
 生活そのものにつかみかかって来るような必然性に欠けた、インテリゲンチアの知的自慰にすぎぬ不安の文学が、当然の結果として夢想しているように強烈な、ヨーロッパ的立体性をもった内容の新しい心境文学を創り出すことができないでいる間に、いい加減に残されていたリアリズムの高唱、明治文学再評価がかえって実際の実を結び、ブルジョア文学の上に、本年度の特徴をなす一現象が現れた。それは、明治文学の記念碑的長篇「夜明け前」を『中央公論』に連載中の島崎藤村はもちろん、永井荷風、徳田秋声、近松秋江、上司小剣、宮地嘉六などの諸氏が、ジャーナリズムの上に返り咲いたことである。
 このことは、ブルジョア文学の動きの上に微妙な影響を与えたばかりでなく「ナルプ」解散後のプロレタリア文学にもある反響をあたえた。それについてはのちにふれることとして、ちょうど前後してある意味ではいわゆる文壇を総立ちにさせた一作品が『文芸』に発表された。龍胆寺雄の「M子への遺書」という小説である。
「M子への遺書」はいわゆる文壇の内幕をあばき、私行を改め、代作横行を暴露し、それぞれの作家を本名で槍玉にあげたことを、文学的意味ではなく、文壇的意味において物議をかもし出したのであった。
 ある作家、編輯者はこの作に対して公に龍胆寺に挑戦をしたり、雑誌の六号記事はどれもそれにふれる有様であったが、この作品は、文壇清掃の初歩的な爆弾的効果をもはたさず、いわば作者一人の損になってしまった形で終った。
 ブルジョア文壇への登龍門があるとすればそれには就職運動と同じようにさまざまのブルジョア的なひき[#「ひき」に傍点]がからんでいること、今日文壇に出ようと思えば銀座辺のはせ川とかいう店で飲まなければ駄目だとか、公然の秘密となっている菊池寛を先頭としてのさまざまの程度の代作あるいは放蕩、蓄妾その他は、ブルジョア風な世界観に支配されているブルジョア社会の一部である文壇において決して意外のことではないのである。「M子への遺書」の作者が、どのような内心の憤激と自棄にかられてあの作をかいたか分らないけれども、もし、真面目にそれらの社会的腐敗を作家として問題にするのであれば、全く別のやりかたでされなければならなかったであろうと思う。ブルジョア文壇に悪行があるとすればそれはとりも直さずその作家たちの属する社会層の悪行であり、その根絶への方向は、一作家の文壇の枠内でのジタバタ騒ぎにすぎないことはわれわれの目に明らかなのである。
 さて再び、自然主義以来の老大家の作品とその影響とに戻ってみよう。
 これら一連の老大家たちの作品の中で、よかれあしかれ最も世評にのぼったのは荷風の「ひかげの花」であった。当時、批判は区々であったが、大たい内容はともかく荷風の堂に入ったうまさはさすがであるという風に評価された。そのう
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