追求に対しておびただしい多彩な醗酵の過程を示さざるを得なかったに違いない。それを横光の如き野心あり、発展性ある作家がどうしてやって見なかったか? 答は明瞭であると思う。横光はそのような冒険で、万一久内が対立人物と同化してしまったり、あるいは久内ともう一人の人物がもみあったまま、ついに「紋章」という一定の実験室的目的をもったガラス試験管が爆発してしまったりしては、何にもならない。そのことをよく心得ているのである。
「紋章」は初めから作者によって準備されている一定の結論のために、限度をあんばいして配置された人物の動きによって、全篇をすすめられているのである。
ここで、私たちはもう一遍、横光の主張する自由[#「自由」に傍点]への道が、どのような社会的モメントに置かれているかということを、「紋章」についてたずねてみよう。久内は「俺は真をも善をも知ろうとは思っちゃおらんのだ。俺は他人に同情できればそれで満足なんだ」とうめいている。
雁金を窮地におとしいれた父山下博士に対しても別居をやめてかえった久内は「父を見ても予期していたような対立的な重苦しさを感じない」それというのも「海中深く没してしまった自分の身の、動きのとれぬ落付きでもあったろう」としんみり述懐しているのである。父が破産するに及んで月給取りになった久内は、こうもつぶやいている。「むかし自分の頭を占めて離れなかった雑多な思想を思い浮べてみることもあったが、それらはことごとくからまり合った一連の網となって、頭上はるかな高い海面でただ揺れ動いているかのように見えるだけだった」そして、月給日など「裏町の小路をのっそりと歩いたり、なんかガスのように下方をはい流れているうつらうつらとして陰惨な楽しみに酔う自身の姿に気がついて、なるほど世に繁茂する思想の生え上った根もとはここなのかと、はっと瞬間目醒めるように眼前の空間の輝きわたるのを意識した。けれでも、そのたびに『いや、眠れ、眠れ』と、彼は自分にきかす子守唄をうたうのである。」
私どもはこのような行文を読んで、これはまことに正宗白鳥の小説の中の文章ではないのかと、おどろいてそれが横光の作中にあることを考えなおす次第である。
久内はかかる気持で生きつつある男なのである。このように沈下した精神状態は、心理学の教科書によらずとも、およそ外界の事件に対して共感、同情のひき起され難いものであることは明らかではないかと思われる。
久内は自分を、雁金というドン・キホーテについてゆくサンチョであるというが、サンチョ・パンサはなぜドン・キホーテにくっついて行ったのであろうか。ドン・キホーテの単純な私心ない行為に「負かされ詰めだけれども、結果としてとうとう僕の方が勝ったのだ。ところが、こいつは誰にも通じやしない。もっとも僕は通じなくたって悲しんでやしないがね」という独善的な結論をかためるためにくっついて行ったのではなかったことは、分明なのである。
この場合、ドン・キホーテになぞらえられている発明家という人物を、さっきのように一行為者としてのマルキシストに置きかえて横光の以上のような結論の性質を観察して見るとしたら、私たちの感想は、これを何と表明したらよいであろうか。
横光利一という作家は、頭脳のある程度の緻密さと、作家として大切な生理的気力を持ち、そうざらにはない男というべきであろう。その横光にして、久内によって代表されるインテリゲンチアというものがなぜ常に自分たちの「思うことと実行することが同一になって運動し」ないことについて苦悩しなければならないかという、その制約の根源をあばく気魄がないのであろうか。酵母についての科学的知識を示すならば、どうして、インテリゲンチアの生活解剖に、社会科学を活動せしめるに堪えなかったのであろうか。
久内が、父の山下などと茶の湯をやる、茶の湯の作法を、横光は丹念に書いて「戦乱の巷に全盛を極めて法を確立させた利休の心を体得することに近づきたいと思っている」久内の安心立命、模索の態度を認め、更に「わが国の文物の発展が何といっても茶法に中心を置いて進展してきている以上は、精神の統一の仕方は利休に帰ってみることがまず何よりの近路に相違ない」「なるほど、茶法の極意を和敬清寂と利休のいったのに対して、それを延して、人に見せるがためにあらず自己の心法を観ずる道場なりと変化さし得て今に至ったことは、ここに何事か錯乱を妨ぐ精神生活者の高い秘密がある」と直覚した久内に、全く賛同しているのである。
ビヤホールで、賢くも確りもしていない善作に向い久内である作者が説明した自由の「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることのできる闊達自在な精神」なるものは、そうして見ると、動的なものではなくて、ある身構えによって輪廓づけられていると
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