るニイチェ風に押しきり得るものか、あるいはその折れ目からかえって全くインテリゲンチア的に虚無的な低下へまで堕ちこむか、私たちは、石坂洋次郎がすでに一つの重大な内容をはらんだ前進をよぎなくされていることを感じるのである。
本年度に入って「ナルプ」が外的・内的の圧力によって解散したこと、ならびにかつて文学の全野の上に鮮やかな階級性の問題を押し出して来ていたプロレタリア文学運動の指導者たちのある部分が、敗北して、現在では自分たちの階級作家としての実践で歴史の推進を実証することはできぬものとなって再び一般文学の中へ還って来ている事実。この二つは、プロレタリア文学を建設しようとしている作家たちを混乱させたと同時に、一般のインテリゲンチアに、自身の消極性を正面から肯定させるような結果に導いている。
横光利一の「紋章」が、現在ブルジョア文学の上では非常な注目をひいているのであるが、その騒がれている心理的な背景は、この問題ときりはなして理解し得ないものであろうと考えられるのである。
数年前、プロレタリアートの擡頭とともに文学における階級性の問題が提出された頃、インテリゲンチアの苦悩と不安とは今日と全く別様な本質をもっていた。新たな世界観を我ものとして身につけ切れない自身を自覚して、自分の弱さを苦しく思う心持。インテリゲンチアの急速な階級的分化の必然はわかっているのであるけれども、自分はさまざまの理由からその移行ができないことについての自己嫌悪。そのような内容をもつものであったと思う。それらの人々の当時の不安は、自分たちの生活の無内容を、より積極的な階級進展の必然性の前に承認した意味では、ある前進的な意味をふくんでいたのであった。
こんにち、ブルジョア・インテリゲンチア作家たちは、何かの形で、いわば、いなおっているといえると思う。文学における階級性の問題は、現在の情勢の下では、それが具体的になれば、いずれ治安維持法にうちあたる性質のものである。その現実にぶつかって見れば楽なものでないことは、勇ましげにあったプロレタリア作家たちの敗北に現れている。自分たちがそんなことに進めないし、進めなかったのはむしろ当然である。自分たちはこれでよいのだ。以上のような安価な見透しに立って、インテリゲンチア作家たちは、つまりマルクス主義のこちら側で、自己をうちたてよう、強い自己を文学の上にうちたてて右からの波、左からの吸引に対し、高邁に[#「高邁に」に傍点]己れ一人を持そうとしていると観察されるのである。純文学家が「不安の文学」とともに問題としている文学における自我あるいは「自己意識」の確立の問題は、それが、マルクス主義に打ちあたってのちのブルジョア・インテリゲンチアの間に再起した個への還元の問題として、大きい社会的内容を私どもに印象づけるのである。
「紋章」については多数の人々がさまざまにそれを突いていた。その批評にあらわれた抽象的な物のいいかた、哲学の引用の様子そのものが、すでに、まざまざと今日の知識階級がどんなに古い知識の破片をうず高くかぶって、窒息せんばかりの状態におかれているかを感じさせる有様である。
横光利一は「紋章」の久内の生きかたによって、今日大多数の小市民・インテリゲンチアが求めている階級性を絶した自己の確立感、不安、動揺の上に毅然と立つ一個の自由人の境地を示そうとしているのである。雁金八郎という、小学校をでたばかりであるが発明についての才能をもった男が、久内と対蹠的人物として「紋章」にでてくる。その雁金の存在と醤油製造、乾物製造についての発明の過程や、久内の父である山下博士の雁金に対する学閥を利用しての資本主義的悪策など、それらがわたしたちの現実の見かたから批判すれば、リアリティーをもって描かれていないと批評したところで、作者横光は当然のこと「紋章」の崇拝者青野季吉を先頭とする多くの読者たちは、ぴくりともしないであろう。
また、これとは反対に、プロレタリア作家が属す階級とその文学の性質について知りながらも、やはり「紋章」に心ひかれ、その理由を、「紋章」では作者が生産をとりあげようとしているとか、近代的な科学性を示しているとか、あるいは進んで作者はそれを意企していないであろうが、資本主義社会機構を計らずもあばいているではないかなど、合理化をしている姿をみれば、先ず作者である横光利一が、ふん、と豪腹そうに髪をはらって、自意識[#「自意識」に傍点]ないプロレタリア作家を見下し、うそぶくであろう。「あれは、実験室的なものだよ」と。――
何かで、この作者が「考えごとをしているときは働いている時だと思う」と言っている言葉を読んだことがある。多くのインテリゲンチアが、自分たちはこれでいいのだと自身にいいきかせつつ、自身の思考力を疑ったり、その
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