ゲンチアに一つのかみ切ることのできない観念的餌食を与えることとなって、作品の刺戟と魅力の一部を構成しているのである。
まず以上のように、からまっているさまざまの蜘蛛の糸を払って、むき出しに「紋章」を眺め、横光によってたどられた自由建設の道行きを調べると、私どもは、いわゆる高邁な文学的業績を熱愛する作者が、実は案外、単純で、楽な道具だてだけをこの作品のために拾ってきている事実を見出すのである。
総体がリアリズムによって書かれているのではないことを一応認容した上で、これはいえることなのであるが、久内が自由の精神によってもって立つ人間と自覚し得るに到るために、作者は久内に多岐多様な内的苦悩を経験させているとは決していえないのである。
雁金という人物は、非行動的で、自意識の過剰になやむインテリゲンチア山下久内に対照するものとして、単純な、変りものの発明狂、行動者として扱われているばかりでなく、作者は、はじめから、久内が「同情し得る」程度の条件しか持たぬ人物としてこしらえている。雁金のお人好し、単純性は、変りものの発明家などにはそういう気質のものがあるという意味で「紋章」にすくい上げられているのではなく、久内に配合して久内を破綻せしめず目的の「自由」へ送りこむために便利な単純性に、現実の体を与えれば、雁金のような発明家でもつくるしかなかったと思われるのである。
横光は「敵なればこそあの人の行動は、僕にとって何よりも自由という精神を強く教えてくれたのだ」と久内にいわせているが、敵として雁金の持っている内容は、ある精神力の水準に到達した知識人にとって、大した困難なく超越して、対手を同情し得る種類のものである。久内に対する雁金の敵としての関係は、外部的なものであって本質的なものではないのである。もし知識人にとって、現在あるがままの知識人であることに疑いを抱かせ、その精神を混乱せしめ従って社会的存在意義を危うくするものが敵であると考え得るならば、横光は、なぜ一人の実践力あるマルキシストを作中にひきこんでこなかったか。(たとえ転落しようとも、再び立ち上る力を客観的必然として持つのはマルキシストであるのだから。)
雁金のかわりに、こけつまろびつしつつも、結局は行動性のチャムピオンであるそのような人物が試験管に投げこまれれば、久内はもっと沸騰し、上下に反転し、煙を立て、作者の知的
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