たてて右からの波、左からの吸引に対し、高邁に[#「高邁に」に傍点]己れ一人を持そうとしていると観察されるのである。純文学家が「不安の文学」とともに問題としている文学における自我あるいは「自己意識」の確立の問題は、それが、マルクス主義に打ちあたってのちのブルジョア・インテリゲンチアの間に再起した個への還元の問題として、大きい社会的内容を私どもに印象づけるのである。
「紋章」については多数の人々がさまざまにそれを突いていた。その批評にあらわれた抽象的な物のいいかた、哲学の引用の様子そのものが、すでに、まざまざと今日の知識階級がどんなに古い知識の破片をうず高くかぶって、窒息せんばかりの状態におかれているかを感じさせる有様である。
 横光利一は「紋章」の久内の生きかたによって、今日大多数の小市民・インテリゲンチアが求めている階級性を絶した自己の確立感、不安、動揺の上に毅然と立つ一個の自由人の境地を示そうとしているのである。雁金八郎という、小学校をでたばかりであるが発明についての才能をもった男が、久内と対蹠的人物として「紋章」にでてくる。その雁金の存在と醤油製造、乾物製造についての発明の過程や、久内の父である山下博士の雁金に対する学閥を利用しての資本主義的悪策など、それらがわたしたちの現実の見かたから批判すれば、リアリティーをもって描かれていないと批評したところで、作者横光は当然のこと「紋章」の崇拝者青野季吉を先頭とする多くの読者たちは、ぴくりともしないであろう。
 また、これとは反対に、プロレタリア作家が属す階級とその文学の性質について知りながらも、やはり「紋章」に心ひかれ、その理由を、「紋章」では作者が生産をとりあげようとしているとか、近代的な科学性を示しているとか、あるいは進んで作者はそれを意企していないであろうが、資本主義社会機構を計らずもあばいているではないかなど、合理化をしている姿をみれば、先ず作者である横光利一が、ふん、と豪腹そうに髪をはらって、自意識[#「自意識」に傍点]ないプロレタリア作家を見下し、うそぶくであろう。「あれは、実験室的なものだよ」と。――
 何かで、この作者が「考えごとをしているときは働いている時だと思う」と言っている言葉を読んだことがある。多くのインテリゲンチアが、自分たちはこれでいいのだと自身にいいきかせつつ、自身の思考力を疑ったり、その
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