なものをさえなお人間生活の希望の部へ繰り込まなければならない社会の現実について憤りを禁じ得ぬ種類の、最も消極的幸福のかげである。荷風の消極の面を白鳥は自身の永年の惰力的な楽なニヒリズムで覆うてしまっているのである。
また、菊池寛のかつぎ出したものに対して、白鳥が、保護[#「保護」に傍点]を拒絶した態度は興味があるけれども博覧な彼もついに見落していることがある。それは、この地球上には世界に比類ない大きい規模で諸芸術を花咲かせ、作家の経済的安定の問題から、住居・健康のことまで具体的な考慮をはらい得る国家が現実に存在していること、そして、そこでは山本有三が松本前警保局長と対談したとは全く異った内容性質で、作家が国家機構へ参加していることなどを、第一回全連邦ソヴェト作家大会の記事がジャーナリズムの上に散見するにかかわらず、正宗白鳥は作家たる自身の生活につながる問題として常識のうちにくみとり得ないでいるのである。
石坂洋次郎が去年から『三田文学』に連載している「若い人」は、はなはだしく一般の注目をひいて以来「馬骨団始末記」「豆吉登場」などつづけて作品が発表されるに至ったのは、以上のように純文学の新生を期しながら、作家たちの実生活、創作活動は依然として非生産的な雰囲気のうちに低迷していた折から、一脈新鮮な息づかいが、文壇的には新人であっても、すでに何年か小説をかいてきていた作者の作に感じられたからであろう。
今からほぼ十年ほど前に、慶応の国文科をで、葛西善蔵、宇野浩二らに私淑し、現在では秋田県の女学校教師であるこの作家の特徴は、非常に色彩のつよい、芝居絵のような太い線で、ある意味での誇張とげてもの[#「げてもの」に傍点]の味をふりまきながら、身振り大きく泣き笑いの人生を描くところにある。
資本主義の都会生活に不自然に一様化された小市民の、臆病で、窮屈で、しかもこざかしい生活態度に反抗し、同時に作者自身の近代的弱さ、複雑さを克服しようという意気ごみで、石坂洋次郎の作家的意企は、思想よりも生活を、精神よりも肉体を描くことに置かれているらしく考えられるのである。
表面的に理解すると、精神や肉体が全く二元論的に見られているようにもとられるその標語で「馬骨団始末記」の作者は、これまでの純文学作家たちがしていたように、単純な一つの行為をするだけにさえ三十枚、四十枚とその心理的過
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