情の一つとして行きわたるのだろうと思う。そういう社会的な土台があっての両性の友情感であれば、おのずから恋愛との区分も、感情そのものの質のちがいとして、本人たちもはっきり自覚することができるのだろう。
日本で、さわやかな両性の友情の成り立ちが困難な原因は、もう一つあると思う。それは、日本の婦人ぐらい欧米の男にだまされやすい女性はないという、その現実の源泉と社会的な性質では全く同じもので、日本の女性たちの日常は、どちらかというと男から荒っぽく扱われ生活感情を圧しつけられて暮らしている。男のひとのいい分とすれば、その外見的な粗暴のかげに日本の亭主ほど女房を立てているものはないと説明される。だけれど、男の側から見かけだけは荒っぽく扱われている日本の女こそ、習俗の上で見かけの礼儀や丁寧さのこまやかな欧米の男にだまされやすいということは、外見だけの荒っぽさと称される境遇が、それだけ女の心を、外見のねんごろさにさえもろくしている深刻な機微を語っているのだと思う。外見だけのこととしていいくるめきれない女性歴代の情感の飢渇が、哀れな傷をそこに見せているのである。
日本の女性が、両性の友情の間で紛糾を生じがちなのは、我知らずそこに、自分たち日常の現実にあらわれている関係のきまった男との間に在るいきさつとは異った気分、より圧迫の少い、女としてより負担と責任との軽い、それゆえより人間として自分を溌剌とさせると感じられる気分だけを主観的に求めて、友情というものの責任観を十分身につけていないところから生じていると思う。
男性たちにしても、女が生きて来たと同じその歴史のうちで生長して来ているのだから、同じような感情のあいまいさや節度の不分明なところを弱点として持っているのは当然である。紛糾は女性が自分の感情の本質をはっきり知っていないことからひき起るばかりでなく、男性が両性感情でまだ未熟粗野であることからもおこって来ているのである。
河合栄治郎氏が余程以前アメリカに留学しておられた時分、友人であった一人のロシア生れの女性が、非常によく両性の友人としての交際に訓練されていて、そのために氏は多くのことを学び、男と女との間に友情がまっとうされるためには守るべきいろいろの限界が在ることと、そして、それを守る節度によってますます友愛はそのものとして清潔に美しくあり得ることを知ったよろこびを語ってお
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング