う一度疑問のジョルジョを見せて貰った。得たばかりの新鮮な知識を以て調べると、彼は自分の鑑別を肯定しない訳には行かなかった。昨夜通読した数冊の著書は一様にジョルジョの作品を一五三七年どまりと断定していた。どの本にもジョルジョが四〇年迄仕事をしたとは書いてない。何より大事な署名さえ、一層この場合不利な証明でしかなかった。何故なら、本当のジョルジョは、MSという二字の上に一つずつ、小さい水の泡のようなまるを描きつけた。この皿の銘のように、二つの文字の間に現代人のする通りの句切点を打つことは、決してなかったのである。
 愈々自分の見識で、この皿を贋物と判定してしまうと、奇妙なことに日下部太郎は、今迄とまるで異う一種の愛着が、この皿に対して湧き起るのを感じた。
 それは、明かに皿を憐れむ心持といえた。彼は工人の欲で、僅か一字か二字無くてよい漢字か欧字かが描き加えられたばかりに贋物とされる皿が可哀想であった。文字で汚されないうちは、兎に角それはまだ贋物ではない。巧拙の差こそあれ、それはそれとしての美と命とを享けている。柄相応に、観られもする。愛されもするだろう。ところが二度三度の余分な筆触で、陶器は贋物地獄に堕される。声が出せたら、陶工がさてと偽の署名をしかけた時、皿や花瓶は一斉に哭《な》いて拒んだだろう。
「やめてくれ、やめてくれ。どうぞあなたの名を書いてくれ」と。
 日下部太郎に皿は生きものであった。無抵抗な、而も情感をなみなみと内に湛えた一つのいとしい生物のように思われるのであった。
 窓際に佇んで、側棚に近より遠のき、飽きず眺める日下部の挙動を見守っていた高畠夫人は、彼の様子に殆ど「恋々」という形容詞があてはまりそうな何ものかが在るのに驚いた。
 次の日は、日曜であった。
 日下部太郎は来客で応接間にいた。
 みや子は居間の六畳で炬燵に当りながら、高畠夫人宛の手紙を書いていた。
 彼女は、無断で良人が昨日子爵家に行ったのを知ると、ひどく不安な感情に襲われた。彼女は、
「そう云って下されば私の名刺も持って行って戴いたのに……」
と良人をせめた。が、彼女の真の心掛りはそれではなかった。沼津の話はまだ自分と夫人との間に閃いた沈黙の感じ合に過ぎなかった。良人が言葉に出して何を云わないでも、昨日と今日、彼だけが夫人の目前に現れ、自分と夫人との心の糸を遮ったことは、みや子にこのましくなかったのである。
 彼女は、廊下で応接室に行こうとする良人を引とめて訊ねた。
「あなた、きのういらしったとき沼津のこと何ともおっしゃいませんでしたろうね」
 彼は、立ち止ろうともせずに云った。
「云えるものかね」
 けれども、彼女は気がすまなかった。彼女は居間に来て榛原の書簡箋を繰りひろげ、芳しい墨をすり流した。そして徐ろに一昨夜の礼から、筆をかえして今度の慶び、人の親の心、自分達の誠心を書きすすめた。彼女は調の高い自分の文章に酔った。彼女はいつか自分がこれを受取って読む高畠夫人の身にまでなり、眼をうるませて筆を運んだ。
 丁度みや子が本文を書き終り、ほっとして、長い巻紙の端を手にとりあげた時であった。彼女の背後の襖の外で書生の声がした。
「奥様」
「――あけておはいり」
 書生は鳥の子の襖を肩幅だけ開けて、一つの到来品を書状ぐるみさし出した。
「今高畠様からお使いがこれを差上げてくれと申しました」
「へえ……高畠さんて――」
 彼女は腑に落ちない面持で封書の裏を見た。高畠正親とある。みや子は理由の分らない不安にせかれて封を切った。処々とばして読んだ文面によると、例の皿は余程お気に適ったと推察する。昨日もまたわざわざ御入来の由を妻から承った。先般来晨子のことでは一方ならぬ御配慮を煩し、何かと心がけていたところ、図らずあの皿がお目に止ったようだ。自分等夫妻の感謝の微意を表すには、この皿を貴下の優秀な蒐集の一部に加えるのが最も適当だと思われる。何卒飾棚の一隅に席を与えてくれるようにというのであった。
 みや子は、持っていた筆の軸で無意識に額の隅を掻いた。彼女は俄に気の抜けた風で、
「お使は待っているのかえ?」
と物懶《ものう》げに訊いた。
「はい」
「ではね、旦那様に失礼でございますが一寸って――
 廊下にどかどか跫音を立てて日下部が入って来た。
「何だい?」
「今こんなものが参りましたよ。何とか云ってあげなければいけますまい」
「どれ」
 彼は気のせく中腰のまま子爵の手紙をとりあげた。読むうちに、彼の顔はぱっと火のように赧くなった。彼は、どっさり片膝をつき、いそいで包を解き、箱を開け、つめものの綿をとりのけた。中には白羽二重の布につつまれ、あれ程心を労させたグーッビョー。彼ばかりが贋と知るジョルジョの円皿が、紅玉釉薬の艶も静に入っているではないか。日下部太郎は皿を
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