。土の古さ、色調、艶の落付きは時代ものには相違ないが、疑問を以て見ると日下部太郎は、皿に描かれた一五四〇という日附を素直に巨匠ジョルジョの名と結びつけ難くなって来た。うろ覚えの年代をさぐると、ジョルジョ自身作を遺したのは千五百年代位までではなかったろうか。
 彼の考を総括すると、この紅色釉薬のマジョリカは、高畠子爵の掘り出した世界的逸品か、或はただの贋物、ジョルジョ没後工房の誰かが師の作を模造したに過ぎないものか、二つに一つということになるのである。
 日下部は、高畠子爵の折角の幸福感を傷つけるに堪えなかった。同時にもっと深く研究する必要があるので、彼はモーニングの衣嚢をさぐり、小形の備忘録をとりだした。そしてスケッチする許を求めた。
「おかまいなければ、一寸形だけ書かせていただけますまいか。描いて置いて思い出した時見なおすと愉快なものです」
 日下部は、だんだん社交になれた人づきよい捌けた声の調子と態度とをとり戻し、子爵にそこここ、備忘録の頁を繰って見せた。
 小さい紙面には、万年筆で濃淡をはっきり達者に、盃台、花瓶、油壺などの写生がしてあった。中には子爵自身もその実物を見たことのある和蘭陀《オランダ》青絵の鉢もあった。
「ほう。――君のはほんものの研究だな。さしずめこれは名誉表《オナラブルリスト》というわけですか」
 彼等は程なく、元の煖炉前の席に戻った。けれども、日下部太郎の眼は、制せられない力で、側棚の方へちょくちょく吸いよせられた。少し離れて見ると、真疑不明のグーッビョーの皿は、いうにいわれない深い美しさで暗紅色のくすんだ釉薬を輝やかせる。――
 子爵は日下部の牽きつけられた顔から彼方の皿へ眼を転じて云った。
「余程興味を唆ったと見えますな。――私も思いがけないことでこの皿一枚兎に角自分の力で救い出したと思うと悪い気持もしません。まあ私の腕で世界の文明に貢献らしいことの出来たのは、後にも先にも、このグーッビョーの皿一点というところかな、ハハハハハハ」
 天性の感情と、先刻自分の与えた賞讚の手前日下部太郎は、穏やかに相手の言葉を受けた。
「いや、皿一枚といっても意味があります。何しろ昔の名工の作は、減ることがあっても永劫殖えることはないですからな、真物なら破片でも大切です。私も、これで、もうちっと金があると本当に会社なんか廃めちまって理想的美術商になりますな。世界の隅々を廻って歩いて思いがけない処から思いがけない逸物を掘り出す愉しさは、考えただけでもぞくぞくする……然し」
 彼は、滑稽に凋れて歎息した。
「悲しいことには金もなし、第一妻君の許可が出そうにもありません」
「ハハハハ。その許可ばかりは君の方から出させたくもなしだろう。ハハハハこれは愉快だ。――奥さん」
 子爵は体を捩って、長椅子の婦人達に声をかけた。日下部太郎は、これに応えて向けた妻の笑顔が、いかにも儀礼に強いられたものであるのに、一向気付かなかった。彼は、辞し去る間際に迄、
「一寸。――お前先に……」
と云って側棚の前に立った。瞬間を惜む彼の瞥見に、疑問のジョルジョの皿は更にまじまじと、底深く煌く紅玉色の閃光で瞬きかえした。

        四

 自動車は、ヘッド・ライトの蒼白い光で、陰気に松の大木が見え隠れする暗い濠端に沿うて駛《はし》っている。
 外界の闇や動揺に神経が馴れると、日下部太郎は忽ち、見て来たばかりのマジョリカのことを考え始めた。
 彼は人知れず自負している通り、多くの古陶器愛好家などが陥り易い、病的な所有慾には煩わされていなかった。彼は寧ろ寛大な観賞家であった。彼は自分の購買力をはっきり弁《わきま》えていたから、却って他人のところでこそ所謂世界的な名品を見たがった。そして、彼は、そのようにして見せて貰う逸品を自分のものひとの物という区別ぬきにして、心から愛し認め得る生れつきの朗らかさを持っていたのである。
 けれども、その朗らかさには一面執念づよい愛好家の神経質が附随していた。彼は、自分の鑑識でよいと認め得ないものに対しては納得の行く迄帽子をとらない頑固さを持っていた。彼はN会社の事務室ででも、電車の中ででも、頭についた陶器のことは忘れなかった。絶えず心でその色や形を反芻した。そして或る期間経つと、何かのはずみで忽然彼自身の信念がその作品に対して明確に形造られるのであった。
 彼は、時々恐ろしく凹凸な市街の道路で揺り上げ揺り下げられながら、衣嚢から先刻の備忘録をとり出した。そして、スケッチのマジョリカを見なおし、彼の謂う捏《こ》ねかたを始めた。
 みや子は、黒絹の襟巻にくるまり、黙って暫く良人の手元を見ていたが軈《やが》て、
「あなた」
と呼びかけた。日下部は手帳に眼をとめたまま答えた。
「うむ?」
「高畠さんのところで沼津の地所を
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