おありにならないこと。――沼津の代りですよ。お皿一枚!」
 日下部太郎は、苦々しい顔をし、黙って箱を持って立ち上った。みや子は両袖を胸にひきかさねながら応接間まで跟いて来た。
 彼は鍵を出して飾棚の硝子戸をあけた。そして、一番上の段の赤絵の盃台を卸し、そこに来たばかりのマジョリカを置いた。彼は部屋の中央まで後退りして見た。光線が不充分だ。彼は赤絵を元に戻し、今度は一番下の棚に場所を拵えた。光線は程よく皿の側面から注ぐが、別な故障が起った。下に張ってある殷紅色の天鵝絨《ビロード》と皿の艶とが衝突する。――
 日下部太郎は、長閑《のどか》な日曜の午後を、一枚の皿のために飽きずに彼方此方した。遂に、彼は、この皿が棚には到底納らないのを発見した。彼の神経の故か、左右八つの棚に、それぞれの姿で並んでいる支那や日本の純粋な古陶等は、見えない空気の顫動のようなもので、頻りに新に加ろうとする怪しいマジョリカを拒むようにさえ感じられた。
 日下部太郎は生のあるものに云いきかせるように贋のジョルジョに囁いた。
「仕様がない。――ではお前は此方で堪能しろ」
 皿は最後に、晴々した日光が正面からさす炉棚の上に飾られた。
 たっぷりした午後の光をまともに受け、その紅玉釉薬の皿は、高畠家の※[#「木+解」、読みは「かしわ」、第3水準1−86−22、450−16]の腰羽目を後にして見たのと、まるで別様の趣で日下部の心に迫って来た。重々しさ、威厳こそ幾分減った。が、紅い釉薬の透明さは愈々増し、下の深い愈[#「愈」はママ]の心臓形が、何ともいえず見事な鮮やかさで浮上った。描かれた僧の胸像も立体的に、今にも微細な粉末になって舞い立ちそうな暗紅色の燦めきの一重奥に、神秘な中世期の代表のように謹直さと憂鬱とを以て横向いている。
 日下部太郎の目に、皿はこれ迄になく魅力と抑揚に富んだ一幅の陶器の額のように見えた。彼は、傍で何か云う妻に空返事をした。眺めれば眺めるほど情が移り、彼は、これ程美しいものの裏に、あんなまやかし文字があったという自分の記憶を疑わずにいられない心持になって来たのであった。
 彼は、また皿を煖炉棚から下した。そして、南に開いた明るい窓際の長卓子まで持ち出した。
 先刻から良人のあとについて、此方に一足彼方に一足していたみや子は、この時、相変らず両袖をかき合わせたまま皿を下目に見下して良人
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