くなかったのである。
 彼女は、廊下で応接室に行こうとする良人を引とめて訊ねた。
「あなた、きのういらしったとき沼津のこと何ともおっしゃいませんでしたろうね」
 彼は、立ち止ろうともせずに云った。
「云えるものかね」
 けれども、彼女は気がすまなかった。彼女は居間に来て榛原の書簡箋を繰りひろげ、芳しい墨をすり流した。そして徐ろに一昨夜の礼から、筆をかえして今度の慶び、人の親の心、自分達の誠心を書きすすめた。彼女は調の高い自分の文章に酔った。彼女はいつか自分がこれを受取って読む高畠夫人の身にまでなり、眼をうるませて筆を運んだ。
 丁度みや子が本文を書き終り、ほっとして、長い巻紙の端を手にとりあげた時であった。彼女の背後の襖の外で書生の声がした。
「奥様」
「――あけておはいり」
 書生は鳥の子の襖を肩幅だけ開けて、一つの到来品を書状ぐるみさし出した。
「今高畠様からお使いがこれを差上げてくれと申しました」
「へえ……高畠さんて――」
 彼女は腑に落ちない面持で封書の裏を見た。高畠正親とある。みや子は理由の分らない不安にせかれて封を切った。処々とばして読んだ文面によると、例の皿は余程お気に適ったと推察する。昨日もまたわざわざ御入来の由を妻から承った。先般来晨子のことでは一方ならぬ御配慮を煩し、何かと心がけていたところ、図らずあの皿がお目に止ったようだ。自分等夫妻の感謝の微意を表すには、この皿を貴下の優秀な蒐集の一部に加えるのが最も適当だと思われる。何卒飾棚の一隅に席を与えてくれるようにというのであった。
 みや子は、持っていた筆の軸で無意識に額の隅を掻いた。彼女は俄に気の抜けた風で、
「お使は待っているのかえ?」
と物懶《ものう》げに訊いた。
「はい」
「ではね、旦那様に失礼でございますが一寸って――
 廊下にどかどか跫音を立てて日下部が入って来た。
「何だい?」
「今こんなものが参りましたよ。何とか云ってあげなければいけますまい」
「どれ」
 彼は気のせく中腰のまま子爵の手紙をとりあげた。読むうちに、彼の顔はぱっと火のように赧くなった。彼は、どっさり片膝をつき、いそいで包を解き、箱を開け、つめものの綿をとりのけた。中には白羽二重の布につつまれ、あれ程心を労させたグーッビョー。彼ばかりが贋と知るジョルジョの円皿が、紅玉釉薬の艶も静に入っているではないか。日下部太郎は皿を
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