座興的に話していた日下部は、この説明で真面目に妻の言葉を打ち消した。
「そんなことはある筈ないよ。またあったとしても俺としては受けられない」
「――それは勿論、始めから私共がそんな打算などはまるでぬきにしてお世話したのは先方だって万々御承知です。だからこそまた、そういう気にもおなりなすったのでしょう? 私は、若しそういうことになれば、素直に先の御厚意を受けるのが礼だと思いますよ、種々にひねくれて考えるのはこちらの心の卑しさを見せるようなものではありませんか」
「そうではないよ。ものには程度がある。自分が当然と思わない好意を平気で受けるようになっては男もおしまいだ」
「どうしてそうお思いなさるんでしょうね」
 みや子は、困じはてたような声を出した。
「あなたの忙しい体でわざわざ伊勢迄出かけて今度のことは纏めてあげたのじゃありませんか。晨子様のことでは皆それはそれは気に病んでいらしったのですもの」
「もうおやめ、そんなに欲しければ沼津に何処か見つけて買ってやる。貰う話だけはやめてくれ、俺は嫌いなんだから。……」
 日下部太郎は、家の門が見える位の処へ来た時、念を押し、みや子が、
「本当にお願いですから、高畠さんから何かお話があったら即答なさらないで下さいね。あなたは私が遊びに行きたがっているとでも思っていらっしゃるのでしょう。……母親は息子達の将来をいつも考えているものなのですよ」
と涙を含んだような声で云ったのをも黙殺した。
 玄関に降ると、彼は書生に、すぐ書斎の煖炉に火をつけることを命じた。
 彼は手早く着換えをし、高畠子爵のそれほど広大ではないが、小ぢんまりと充分居心地よい書斎の机に、大部の書籍を数冊とり出した。二月下旬の夜気は何といっても爪先にしみる。彼はそれをものともせず活気横溢した学生のような意気込みで、ジョルジョの作品年代を調べ始めた。直覚的な自分の推測と合致した記述に出逢うと、老いた若者は亢奮してデスク・ラムプの狭い光の弧の下で肩を揺り動した。執念深いみや子の別荘話も、一日の疲労も何処にか消えてしまった。日下部太郎は、燈火の朧《おぼ》ろな書斎の一隅で、古風な鳩時計が、クックー、クックーと二時を報じる迄、机の前を去らなかった。

        五

 翌日の午後、日下部太郎は昨夜の礼を兼ねて再び高畠邸を訪ねた。
 主人は留守であった。彼は夫人に通じて、も
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