も》さほ子の心に湧いた。
千代は、その人形を見せ、彼女に国の話をきかせた。
千代の話によれば、彼女の父は町で有名な酒乱であった。彼女の母は、十年前妹をつれて逃げ、今名古屋にいる。その人形は、数年前、母に会いたさに父に無断で名古屋に行った時、母に買って貰ったと云うものであった。今度、到底いたたまれないで逃げて来るにもその人形だけは手離せず包に入れて持って来たのだそうだ。
成程古いのだろう。
やすもののその西洋人形は、両方とも眼がとれていた。亜麻色の濃い髪を垂れ、赤い羽二重の寛衣《シャツ》をつけた人形は、わざとらしい桃色の唇に永劫変らない微笑を泛べ、両手をさし延して何かを擁《だ》き迎えようとしながら、凝っと暗い空洞《うつろ》の眼を前方に瞠っているのだ。
千代は、越後の大雪の夜、帰らない飲んだくれの父を捜して彼方此方|彷徨《さまよ》った有様を憐れっぽく話した。
さほ子にとって、其等の話は本当らしくも、嘘らしくもあった。彼女の話す声は全くそれ等の話に似つかわしいものであったが、容子はちっとも砕けず、余り自身の美しさを知りすぎているようであったから。
さほ子は、陰気になって千代の部屋を出た。彼女は、本当か嘘か判らず而も話そのものは同情を牽かずにいないと云う話は好まなかった。
三日四日経つうちに彼は家の中だけ歩くようになった。
従って千代を見る機会も増した。
彼は風呂場などに行ったかえり、よく妻と顔を見合わせては、むずかしい顔をして頭をふるようになった。
それに対して、さほ子は瞹昧極る微笑を洩した。
彼は、湯殿の鏡の前で、彼が後に来たのも知らず真心こめて化粧をなおしている千代を見出した。彼は困って咳払いした。千代は鏡の中でぱっと眼を移し、重って写っている彼の顔に向って華やかに微笑みかけそして、ゆっくりどきながら云った。
「まあ、御免遊ばせ」
そしてすっと開きから出て行った。
又、彼女は、食事の前後以外には、どんなに食事部屋でがたがた物を動す音がしても、決して自分の部屋から出ないと云う主義を持っていた。
彼女の部屋の硝子から、此方に著たきりの派手な羽織のこんもりと小高い背を見せたまま別の世界の住人のように無交渉に納っている。
千代が、さしずをされずに拵えるものは、何でもない、彼女自身の大好物な味噌おじや丈だとわかったとき、さほ子は、良人の寝台の上に
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