す。口には云わず心配の多い母、自然の足許に、此も無言の裡に悩む一人の娘が、いつまでも立っていました。
 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云います。中には、世間並の交際などは出来ない者として噂する者さえありました。バニカンタは、何不自由ない暮をし、毎日二度ずつも魚のカレーを食べられる程だったので、彼を憎んでいる者が、決して無いではなかったのです。段々、妻やその他女の人達が喧しく云い出したので、到頭バニカンタは、二三日何処へか出て行きました。そして、間もなく帰って来ると、
「わし共は、カルカッタへ行かんければならないよ。」
と云い渡しました。
 家の者は、此知らない土地へ旅立つ為、種々仕度を調えました。スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきまといました。大きな眼を見開いて、いかにも何か知りたそうに、親達の顔を眺めます。けれども、彼等は只一言も恵んでは呉れませんでした。
 斯様な事のある最中の或る午後、プラタプは、いつものように釣をしながら、笑ってスバーに云いました。
「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」
 直ぐ又、彼は魚に気を取られて仕舞いましたが、スバーは、傷つけられた牝鹿が、苦しみの中で、
「私が、貴方に何をしたでしょう?」
と訊きながら狩人の顔を見るように、プラタプの面を見守りました。
 其日、彼女はもういつもの木の下には座りませんでした。スバーが、父の足許に泣き倒れて、顔を見上げ見上げ激しく啜泣き出した時、父親は、丁度昼寝から醒めたばかりで、寝室で煙草をのんでいる処でした。
 バニカンタは、どうにかして、可哀そうな娘を慰めようとしました。そして、自分の頬も涙で濡てしまいました。
 愈々《いよいよ》、明日は、カルカッタに行かなければならないと云う時になりました。スバーは、自分が子供の時から友達であったもの達に別れを告げる為、牛小舎に入って行きました。彼女は自分で芻草《かいば》をやりました。彼女は、牛達の頸にすがりつき、その顔をつくづくと眺めました。言葉に代って物を云う、両方の眼からこぼれる涙は止めようもありません。其晩は、丁度十日月の夜でした。スバーは部屋を脱け出し、懐しい川岸の、草深い堤に身を投げ伏せました。まるで、彼女にとっては強い、無口な母のようにも思われる「大地」に腕を巻きつけて、
「どうぞ、お母さん、私を行かせないで下さいまし。貴女のお手で、私を確《しっ》かり抱いて頂戴。斯うやって、私がすがり付いているように。そして、どうぞしっかり捕えていて下さい」
と云いでもするように。
 カルカッタの家に着いてからの或る日のことでした。スバーの母は、大変な心遣いで娘に身なりを飾らせました。髪の毛をレースのように編んで畳み込み、体の彼方此方に飾りを下げ、スバーの自然の美しさを代なしにするに一生懸命になりました。
 スバーの眼は、もう涙で一杯です。泣いて瞼が腫れると大変だと思う母親は、きびしく彼女を叱りました。が、涙は小言などには頓着してはいません。花婿は、友達と一緒に花嫁を見に来ました。神が、彼に供える犠牲の獣を選びに被来《いらし》ったように、スバーを見に来た人を見ると、親達は心配とこわさで、クラクラする程でした。物かげでは、母が高い声を出して娘を諭し、人々の前に出す迄に、スバーの涙を一層激しくしました。来た偉い人は、長い間、彼女をじいっと見た揚句、
「そんなに悪くもない。」
と思いました。
 彼は、スバーの涙に特別な注意を払い、彼女が優しい心を持っているに違いないと思いました。今日、両親と別れるのが辛くて歎いている心は、やがて、自分の為になる財産の一つとなるだろうと考えたので、彼は、それをも、スバーに対する信用の一つに加えました。牡蠣《かき》についた真珠のように、娘の涙は彼女の価値を高めるばかりでした。彼は、スバーが自分の不具を悲しんで泣くとは知らず此ほかの解釈を、その涙に対して下そうともしませんでした。
 終《つい》に暦が調べられ、結婚の儀式は吉日を選んで行われました。
 娘の唖な事を隠して他人の手に引渡して、スバーの両親は故郷に帰って仕舞いました。有難いことです! 斯うやって彼等は親の務めを兎に角済ませたから、スバーの親達には此世の幸福と天国の安らかさが、真個に与えられると云うのでしょうか。花婿の仕事は西の方にあったので、結婚して間もなく、彼は妻を其処へ連れて行きました。
 然し、十日も経たないうち、花嫁が唖であったのを、知らない者は無くなってしまいました。若し又、誰か其を知らない者があったとしても、其は少くとも、彼女がわるいのではありませんでした。彼女は、誰も瞞しはしないのですから。
 誰一人として解って呉れませんでしたが、スバーの眼は、総てのことを彼等に語っていました。彼女はあらゆる人々を見廻しました。通じる話は何処にもありません。彼女は、唖の娘の言葉が分って呉れた人々の子供の時から見馴れた顔をどんなに懐しく慕わしく思ったでしょう。彼女の物を言わない胸の裡には、只、心を見透おす神ばかりに聞える、無限の啜泣きがあったのです。
 今度こそ、眼と耳と両方を使って、彼女の良人は眼と同様に耳も働かせた厳重な検査をし、二度目の、物を云える妻と、結婚しました。[#地から1字上げ]〔一九二三年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「少女倶楽部」
   1923(大正12)年2月号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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