、ビンロウジと云う木の実を、しなの木の皮と一緒に、チューインガムでも噛むように、噛む習慣を持っています。)
 そうやって長いこと坐り、釣の有様を見ている時、彼女は、どんなにか、プラタプの素晴らしい手伝い、真個の助けとなって、自分が此世に只厄介な荷物ではないことを証拠だてたく思ったでしょう! けれども、何もすることはありませんでした。其処で、彼女は仕方なく天地をお創りになった神に向い、どうか、此世にない程の力を授けて下さるように、驚くべき奇蹟で、プラタプに
「や! 此がお前に出来ようとは思わなかった※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と、喫驚《びっくり》、叫ばせてやることが出来ますように、と祈るのでした。
 ああ、考えても御覧なさい。若しスバーが水のニムフであったなら、彼女は、蛇の冠についている宝玉を持って埠頭《はとば》へと、静かに川から現れたでしょうに、そうなると、プラタプは詰らない釣などは止めてしまい、水の世界へ泳ぎ入って、銀の御殿の黄金作りの寝台の上に、誰あろう、この小さい唖のス、バニカンタの娘を見ることも出来たでしょうのに。そう、そう、私共のス、あの宝石の光り輝く市の王様の、たった一人娘のスを! けれども、其那工合には行きません。それは出来ないことでした。真個にそれ等の事も出来ないと云うのではありませんが、スは、水の世界パタルプールの宮殿へ生れないで、バニカンタの家に生れて仕舞いました。其ですから、彼女は、どうしたらゴサインの息子を喫驚させられるか、分らなかったのです。
 次第に、彼女は大きくなって行きました。いつとはなく、物心もつきました。彼女の身内を貫いて、丁度満月の時、海の真中からゆらぎ出す潮のように、新たな、云うに云われない感覚が、流れました。スバーは、我と我身を顧みました。自分に問をかけても見ました、が、合点の行く答えは、何処からも来ません。
 或る満月の晩おそく、彼女は静かに部屋の戸を開けて、こわごわ戸外を覗いて見ました。淋しいスバーと同じように、彼女自身満月の自然は、凝っと眠った地上を見下しています。スバーの若い健やかな生命は、胸の中で高鳴りました。歓びと悲しさとが、彼女の身も心も、溢れるばかりに迫って来る。スバーは、際限のない自分の寂しささえ超えて恍惚《うっとり》として仕舞いました。彼女の心は、堪え難い程苦しく重い、而も、云うことは出来ないのです。口には云わず心配の多い母、自然の足許に、此も無言の裡に悩む一人の娘が、いつまでも立っていました。
 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云います。中には、世間並の交際などは出来ない者として噂する者さえありました。バニカンタは、何不自由ない暮をし、毎日二度ずつも魚のカレーを食べられる程だったので、彼を憎んでいる者が、決して無いではなかったのです。段々、妻やその他女の人達が喧しく云い出したので、到頭バニカンタは、二三日何処へか出て行きました。そして、間もなく帰って来ると、
「わし共は、カルカッタへ行かんければならないよ。」
と云い渡しました。
 家の者は、此知らない土地へ旅立つ為、種々仕度を調えました。スバーの心は、まるで靄に包まれた明方のように涙でしめりました。近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきまといました。大きな眼を見開いて、いかにも何か知りたそうに、親達の顔を眺めます。けれども、彼等は只一言も恵んでは呉れませんでした。
 斯様な事のある最中の或る午後、プラタプは、いつものように釣をしながら、笑ってスバーに云いました。
「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」
 直ぐ又、彼は魚に気を取られて仕舞いましたが、スバーは、傷つけられた牝鹿が、苦しみの中で、
「私が、貴方に何をしたでしょう?」
と訊きながら狩人の顔を見るように、プラタプの面を見守りました。
 其日、彼女はもういつもの木の下には座りませんでした。スバーが、父の足許に泣き倒れて、顔を見上げ見上げ激しく啜泣き出した時、父親は、丁度昼寝から醒めたばかりで、寝室で煙草をのんでいる処でした。
 バニカンタは、どうにかして、可哀そうな娘を慰めようとしました。そして、自分の頬も涙で濡てしまいました。
 愈々《いよいよ》、明日は、カルカッタに行かなければならないと云う時になりました。スバーは、自分が子供の時から友達であったもの達に別れを告げる為、牛小舎に入って行きました。彼女は自分で芻草《かいば》をやりました。彼女は、牛達の頸にすがりつき、その顔をつくづくと眺めました。言葉に
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