りずっと自分に親しい一部分です。娘の欠点は、自分の恥の源《もと》ともなります。父親のバニカンタは、却って他の娘達より深くスバーを愛しましたが、母親は、自分の体についた汚点《しみ》として、厭な気持で彼女を見るのでした。
 例え、スバーは物こそ云えないでも、其に代る、睫毛の長い、大きな黒い二つの眼は持っていました。又、彼女の唇は、心の中に湧いて来る種々な思いに応じて、物は云わないでも、風が吹けば震える木の葉のように震えました。
 私共が言葉で自分達の考えを表す時、仲だちとなるものは容易に見つかりません。大抵の場合不確な考えの翻訳と云う順序を踏まなければならず、為に、私共は、よく間違って仕舞います。
 けれども、スバーの黒い眼には、何の翻訳もいりませんでした。心そのものが影をなげました。眼の裡に、思いは開き閉じ、耀き出すかと思えば、闇の中に消え去ります。沈んでゆく月のように凝っと一つところにかかったり、又は、迅い閃く稲妻のように、空――眼全体を照したり。生れ落るとから、唇の戦きほか言葉を持たずに来たものは、表し方に限りがなく、海のように深く、曙、黄昏《たそがれ》が光りや影を写す天のように澄んだ眼の言語をならいました。唖は、自然が持っているような、寂しい壮麗さを持っているのです。其故、他の子供達は、スバーをこわがる位でした。決して彼女とは遊びませんでした。彼女は、丁度人が暑さに恐れて皆家へ入っているインドの真昼間のように、静かで独りぼっちなのでした。
 スバーの住んでいたのは、チャンデプールと云う村でした。ベンガール地方の川としては小さいその村の川は、あまり立派でもない家の娘のように、狭い自分の領分を大事に守って居りました。そのいそがしい水の流れは、決して堤から溢れることがありません。けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の務めをいそしんでいました。両岸には人家や樹陰の深い堤があるので、川の女神は、女王の玉座から踏み出しては家毎の花園の守神となり、自分のことを忘れて、軽い陽気な足どりで、不断の潤いを、四辺《あたり》のものに恵むのです。
 バニカンタの家は、その川の面を見晴していました。構えのうちにある小屋でも稲叢《いなむら》でも、皆川を過ぎて行く船頭の処から見えました。此、金持らしい有様の中で、仕事がすむとそおっと川の汀《みぎわ》に出かけ、其処に座る、一人
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