であるとだけ云い得るかどうか。
 プロレタリア文学の着実な日常性、大衆性というものの本質は、小林秀雄氏等によっていわれている大衆性とちがい、武田麟太郎氏がいう日常性と違ったものであり、プロレタリア作家は自身の生活と文学とでその相互をはっきりと描き出してゆかねばならないのであるということが、どの程度に鮮やかに感覚されているであろうか。
 運動がなく、全体的な目じるしがないのだから、プロレタリア文学におけるプロレタリア性とか、プロレタリア作家が自分から自分の中に確認しようとするプロレタリア・インテリゲンツィア性というものも、とかくその人々の主観によって色づけられ、評価される危険が伴っている。何故なら特別な一部の人々を除いた大多数の読者は、読者自身何もはっきりとした判断のよりどころというものを持っていないのであるが、漠然この現実とブルジョア文学だけではあきたらぬ心持を托して読むのであるから、一方からいうとプロレタリア文学は今日些細なプロレタリア風な薬味を実は添えているだけであっても、読者から叱責され、或はきびしく批判されるという心配なしでやって行ける事情におかれている。
 プロレタリア文学が
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