ったり、女学校へ馬車で通わしたり、親たちはドシドシ娘を仕込んだ。親の目的は世界の俗っぽい親の目的どおり到って現実的だった。出来るだけ金持の男へ、出来るだけ権勢ある貴族へ好い条件で娘を嫁にやれるように、という範囲でなら、何も特色の一つだ。哲学ずきさえも、もし美しく化粧することを忘れない程度ならサロンの風変りな花形として黙認した。つまり、あらゆる婦人のための学問教養が「客間用」として授けられた訳なのだ。これは、プーシュキンの初期の作品にもよく描かれている。
 ところが、皮肉なことに、貴族やブルジョアに生れた娘の知識と欲望はいつも親どもの希望するような方向にだけひろがるときまらない。親が黙許した限度に止っているとは限らない。若さは時代の空気に敏感で、素質のいい、若い少数のインテリゲンツィア婦人たちは、強烈に先ず家庭内の封建性と衝突し、引いて貴族やブルジョア社会の破廉恥、搾取、無目的な浪費生活をきびしく批判するようになった。
 家長専制の当時のロシアの上流中流社会で、娘が親を矯正することは不可能だった。
 ソーニア・コ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]レフスカヤのように、勇敢なインテリゲンツィアの若い婦人たちは、医学を勉強しようとして、科学を勉強するためにさえ家出しなければならなかった。家出した娘たちは個人教授をやったりして、自活しながら勉強し、大学生活と自活生活におけるたたかいから政治的活動にも関係をもつようになった。ロシアの革命史の中に書かれる婦人の功績は実に多い。更にその名も書かれず、事業も表面には記録されないような場所と役割で、光輝ある人民解放運動のために一生を忠実に働いたインテリゲンツィア婦人は決して十人や二十人ではなかったのだ。レーニン夫人のクループスカヤも小学校の女教師をしながら、レーニングラードの労働者学校に働いてマルクシストとなった。
 弾圧のきびしい地下運動の間で、彼女達はよしんば才能と希望があったにしろ文学活動をやっている余裕はなかった。
 例えばチェルヌイシェフスキーやツルゲーニェフの多くの作品にも解放運動に働くロシア婦人の姿は描かれた。だが、政治的に急進した婦人自身は、文学作品としてその経験を記録する暇なく激しく速い行動のうちに生涯を燃やし切った。
 この事情は、中国の婦人と文学の事情にもあてはめられる。中国の人民解放のために献身している婦人の数はどれほどだろう。解放軍の進むあらゆるところに協働する婦人の姿がある。幾万人という革命的婦人がある。だが、どれだけ新しい婦人作家が出ているだろう。過去の英国の文学史になかった作品をかく婦人作家が将来において生れる社会的基礎が現在用意されつつある。
 おくれて発達したロシアの資本主義は急速に爛熟し崩壊しはじめた。二十世紀のはじめのロシアのシンボリズムの婦人詩人ギッピウス、デカダンス文学の作者としての婦人作家が数人数えられた。なかでもウェルビツカヤが女で好色の文学をかくことで有名だった。
 文化は依然として、支配階級の手の中にあった。
 メレジュコフスキーの妻であったギッピウスは、フランス文学のデカダンスの影響をうけ、革命からはなれて、前途に何の見とおしもなくなった有閑インテリゲンツィアの無気力、人生への無興味と生存の無目的。死に対してさえ冷淡な蒼白さを、大胆に、声高く謳った。ギッピウスの詩は、腐敗したロシアのブルジョア社会が放つ気味悪い燐光として閃きわたった。
 現在、ソヴェト同盟の婦人作家として活動している婦人作家のなかの多くの人々は、もうこの時代に生れていた。ヴェラ・インベルはいろいろな用紙印刷人の父、小学校校長であった母の娘として。小官吏の娘アンナ・カラヴァーエ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]は中学を卒業し、農村小学校の教師として赴任した頃だった。マリーヤ・マリッチはペテルブルグで教育を勉強していた。眼玉の大きい韃靼《だったん》の血の混った娘リディア・セイフリナはそのころは二十前後で、タシュケントやウラジ・カウカアズ、オレンブルグなどで舞台にたっていた。一八七五年生れのオリガ・フォルシュは絵画学校を出て、既に文学作品を発表している。そして鉄道に関係があってパリだのミュンヘンだのへ行っている。非常な勉強ずきで哲学から鉱物学、結晶学まで専門にやったマリエッタ・シャギニャーンは、当時紡績織物専門学校で紡績についての研究をやっている。――
 一九一四年に、第一次世界大戦がはじまって、一九一七年三月には、ケレンスキーの仮政府ができ、つづけて、「十月」プロレタリア革命が遂行された。
 貴族、金持たちは、出来るだけの宝石、金貨をひっさらってオデッサから、ペテルブルグの波止場からフランスへ逃げた。
 多くのブルジョア芸術家も逃げ出した。ギッピウスもフランスへ逃げた。彼女が海の彼方のブルジョアの国に居候しながら、革命の悪口、ボルシェビキの悪口を云っている間に、ソヴェト権力は鎖をすてて立ったロシアのプロレタリア、農民、働く人民の政権として樹立された。
 新しい燃ゆるような社会主義の生活が開始された。そろそろ文学活動をはじめていた婦人作家達は、どんな工合に、人類にとって偉大なこの歴史の転換期を経験しただろうか。

        ソヴェト同盟の婦人作家(下)

 興味のあることは、これら数人のソヴェト同盟の婦人作家たちが、一九一七年までは、殆んど誰も革命的な政治活動に直接関係していなかったことだ。
 ただ一八八八年生れのシャギニャーンが一九〇五年の革命の時、中学校の八年生で、学生委員会の代表をやったことを、短い自伝の中に書いている。(ゴーリキイは一九〇五年一月十九日の血の日曜日について「一月十九日」という記録をかいている。ゴーリキイはこの頃次第にロシア・マルクシストの団体に近づいていた。)
「十月」にまで高まりつつあったロシアの人民の革命的発展というものに、大して密接な関係なく、彼女たちの或るものは小学校女教師として暮し、或るものは田舎の町の女優、作家として暮していたわけだ。
 だから、一九一七年、ケレンスキー内閣の崩壊。ボルシェビキのソヴェト政権確立と、火花を散らす大変革がおこった当時、党指導部に参加していたり軍事委員の内部にあってプロレタリア革命の時々刻々の推移を見たという婦人作家は一人もいない。わずかに評論・報告集二冊をのこして一九二五年ごろ死んだラリーサ・レイスネルがある。レイスネルはレーニングラード大学教授の娘であった。家庭の革命的雰囲気のうちに育って「十月」が来たとき彼女はパルチザンの政治指導員であった。一度も「疲れた」と云わない美しくて若い婦人指導者として知られていた。ラデックの妻であった。ラデックが「十月」にもう反革命の組織者の一人であったことをラリーサ・レイスネルは知らないで死んだ。
 アンナ・カラヴァーエ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]は率直に書いている。「十月革命は私の精神に途方もない擾乱と動顛を与えた。」
 構成派の影響を多分にうけ、詩集や短篇集を出版していたベラ・インベルは、「十月」が世界的な、震撼的な出来事だということは理解した。が、彼女はどんな大衆的行動にも、歴史的な市街戦にも参加しなかった。革命は彼女の「わきを通り過ぎた」。
「十月」はそんな工合にあらわれたとしても、それに引きつづいてすぐソヴェト同盟の建設という大事業がやって来た。
 ソヴェト権力はロシアじゅうの古くさくて権柄な村役場を、農民の村ソヴェトにかえた。書類は今までと違うように書かれ、憲法は「働かざるものは食うべからず」ということから書かれるようになって来た。
 学校だって、きのうまでのロシアの学校ではない。教育方針は根本からの建て直しだ。あらゆる学校は「学問をすべての勤労者に」という立場から文化を、専門技術を人民のものとして身につけ高める為にこそ動くようになって来た。
 いたるところに新しい活動がおこり、いるのは人手だ。あらゆる場所でいるのは、社会主義社会というものを理解し、その建設のために骨おしみをしない人だ。ソヴェト権力は、この巨大な新建設の要求のために、ドシドシ有能な市民の自発性を抱擁した。その新しい社会の働きてとしての価値においては男、女の旧い区別は消されている。
 セイフリナは十月革命の時にもう舞台をやめて、オレンブルグ地方で図書館監督をしていた。ケレンスキー内閣の時分、彼女は社会革命党に属していたが、一九一七年には、地方の革命的鉄道従業員と一緒に、そんな政党からは脱退してしまった。そして、一生懸命、地方に新ソヴェト文化を撒きひろげるため、シベリア国立出版所の書記となって働き始めた。
 紡績を専門に研究したマリエッタ・シャギニャーンは、今こそソヴェト同盟にとって、大切な一人の紡績技師、教師であった。彼女は、ドン地方で、最初のソヴェト紡績専門学校を設立する任務を与えられた。シャギニャーンは、暇々にツァーのロシアの社会で指導的位置をもっていた象徴派の婦人詩人ギッピウスの詩の批評を書きながら、その紡績専門学校で養羊学と、養蚕学とを講義しはじめた。
「十月」にはびっくりした若い女教師アンナ・カラヴァーエ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]だって、いつまでも呆然としてはいなかった。積極的な気質で、一九二二年には、ロシア共産党に加盟した。そして、中央執行委員会の中の、質問応答掛で働き出した。
 革命とともに数百万の女が、ソヴェト同盟の新社会の礎を据えるために男と並んで働きだした。八時間労働。同一労働に対しては男女同賃銀。婦人の活溌な社会労働は、完全な母性、幼児保護の設備なしには期待出来ない。産前産後四ヵ月の有給休暇。無料産院。托児所。出産仕度金は月給の半額まで支給され、ソヴェト同盟の労働法は姙娠五ヵ月以上の婦人労働者と、生れて十ヵ月未満の赤坊を抱えた婦人労働者は、殆んど絶対に解雇することは許されない。
 こないだまでの世の中とは何という違いだろう! 支配人の顔なんぞ見たこともない工場の職場を、今日は同じ労働者出身の工場監督が親しく笑ったり喋ったりしながら、仲間として指導して歩きまわる。工場委員会は自分らのものだ。もとは、夜会服を着た男や女だけが見物するものときまっていた国立オペラ・バレー、すべての芝居は、労働組合手帖で半額で見られる。
 一年に一ヵ月の有給休暇があって、その時は絵でばかり見ていたようなクリミヤの離宮や大金持の別荘がプロレタリア、農民のための「|休みの家《ドーム・オトドイハ》」となっている。そこへ行って、台所の心配もぬきにして楽しく休める。工場では十三時間も働らかされ、搾られ、男の半分しか賃銀が貰えず、亭主には殴られていたロシア婦人労働者の日常生活は、そういう内容でかわって来た。
 実際に労働して来たもの、人につかわれて来たものには、資本主義のもとでの搾取労働、奴隷のような労働と、ソヴェト政権のもとで社会主義の方法で組織された労働との違いは、骨肉にしみてわからずにはいられない。
 そのねうちがわかれば、どんなに古風なロシアの年とった女でも、自分たちのソヴェトを支持しないではいられない。支持しようとすれば、どうしたって革命的な連中と会ってよく話をききたいし、あっちこっちの事実を知りたい気になる。妙な間違ったことを本気にしている連中には、ちゃんと教えてやりたい。その時まともに字も書けず、本もよめず、理屈のたったことも云えないというのは、この上なく不自由なことだ。
 婦人労働者だって、農村婦人だって、今はソヴェト役員にも選ばれるのだ。党に属さない大衆からよけいソヴェト役員は選ばれている。
 工場学校。労働クラブのいろいろな研究サークル。文盲撲滅の講習会。各大学・専門学校の労働科。それらのどこへ行っても熱心に学ぶ女たちの姿の見えない文化施設はソヴェト同盟のどこへ行ってもないようになった。
 国内戦、饑饉、チブスの中から、不屈な革命的大衆の力でソヴェト同盟の新文化がモリモリせりあがって来たのだ。この時代、ソヴェト同盟の勤労大衆に、異常な関
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