プロレタリア婦人作家と文化活動の問題
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)抑々《そもそも》
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(例)農民のための「|休みの家《ドーム・オトドイハ》」
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ソーニア・コ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]レフスカヤ
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前書
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女人芸術の編輯部から一つのたのみをうけた。それは、十月号からずっと二三ヵ月つづけて、文学に関することを何か講座風に書いてくれというのだ。
その話をきいた時はもう締切り間もなく、おいそれと云って、まとまった筋書が立たない。自分はもし時間があったら、ソヴェトの現代作家が作品の中に婦人をどうとり扱っているか、そしてそれは、例えばツルゲーニェフやチェホフ、トルストイでもよい、革命までの所謂ロシア文学の中に現れた女性と比べて、どう階級的な、大飛躍をしているかというようなことを具体的に調べて見たいと思った。今からそれはとても間に合わない。
そこで、とにかく、われわれがプロレタリア婦人作家として日常の芸術行動、文化活動をして行くうちの経験として最近感じた一つの問題をとりあげ、少し吟味して見ることにした。
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何故これまで婦人作家は男の作家より少なかったか
いつだったか、ブルジョア・ジャーナリズムがやっぱりこの問題をとりあげた。そして、世界各国の歴史を通じて何故婦人作家が男より少ないか、ということを云い出したが、問題をまともに追究せず、笑い話で下げにしてしまった。
何故男より女の作家が少ないかと云えば、文学を司る神はミューズで、ミューズは女性だ。だから動物電気の工合で、男をヒイキにするが、女とは同性で相反撥し合う。やきもちをやく。故に女の作家というのは少ないが、音楽家を見るがいい、女で素晴らしい人がこれまでも多勢出たし、いまも出つつある。音楽の神はアポローだ。男だ。女をヒイキにしてくれるアポローのおかげで女の音楽家には素晴らしいのが沢山いるのだ。そういう説明でお茶を濁していた。
この解答が、思いつき以外の何でもないことは、誰にでも、ハッキリわかる。
では、ほんとにどういう理由で、世界の文学はあらゆる時代を通じて傑れた婦人作家というものを僅かしか持っていないのだろうか?
封建時代及資本主義社会においてはいつも婦人の社会的地位がひくく、したがって文化的発達の可能が男のもっている可能性に比べて常に限られていた。これが一番基本となる社会的な理由だ。
音楽、特に女性がこれまで偉大な足跡をのこして来た声楽の場合では、その自然的な条件が文学的創作の場合と大分違う。女の喉しかソプラノの声は出さない。美しいソプラノの出る、または味のあるアルトの出るよい女性の喉を持ってさえおれば、声楽家として第一の必須条件は生理的に具わっている。規律正しい練習、健康法、その他の勉強をしてゆくに強大な忍耐と意志と聰明さがいる。そして、そういう音楽勉強の許される経済事情が必要であるのは明らかだ。それにしても、文学的創作をやってゆく場合より、女性としての自然の生理的条件が、遙かにひろい基礎的な役割をしめる。文学的創作は、理知的な構成力、綜合力を非常に要求する。どういう階級に属していようとも、自分の描こうとする社会、心理を具体的に、観察的に把握し、その全体をひっくるめた相互関係を歴史の発展性の上において理解し、整理しなければものにならない。
われわれは、現在、世界資本主義末期の激化した階級闘争、窮迫した経済事情の裡に生きている。めいめいが一こと二ことに云いつくせない苦痛、憤怒、不安、或は未来の勝利への希望をもって、生き、闘っている。その生活の間に、いろいろ刻みつけられ、忘れようとしても忘られず、独りで坐ってでもいるときには、つい紙に向い、その事件、印象を書きたくなるようなことがある。
どんな男でも女でも、生きて行くうちに、一つや二つ、ひとりでに書いて見たい心持の起るような経験はもっているものだ。
ところで、いざ、書翰箋なり原稿紙なりひろげて書きはじめてみると、どうも思うように書けない。胸いっぱいに書きたい気はあるのに、どう筋を立てていいのか、或る事件をどう説明していいのか。到頭根まけがして、クシャクシャに丸めてしまいましたと云う例がよくある。
この場合、困難は文章をかくということにだけあるのではない。われわれが口を利いて言葉で長い文章をつくれる以上、文章をつづるということ自体は問題でない。真の困難は「書きたいことが一どきに頭に浮んで」始末がつかないというところにある。
云いかえると、A子ならA子という一人の女が、忘られない程強烈な印象をうけた事件、見聞、経験なりを、一旦ひろい社会機構の内へつきはなし、抑々《そもそも》そのような事件の発生した客観的な事情、そこに動いている各人物の心理動機などを解剖し、綜合して見直し、第三者にのみこめるように再びくみたてる力の不足が、困難の原因なのだ。
これまで日本文学における和歌と小説と、どっちの領域に多くの婦人作家が活動していたか、それを比較するとその相異がわかる。
和歌の小さい形式、一首の和歌の中に社会の一小情景を再現するか、さもなければ、主観的な感慨を再現し得る伝統的形式は、社会現象を引くるめて大きく構成的に散文として把握し得ない婦人にでも、適当な芸術形式として利用されて来た。
ちょっと歌もよむという小中流の婦人は多い。短いものなら小説も書くという婦人は尠い。――
イギリス、フランスは早くから婦人作家の出た国だ。イギリスは冬の長い陰気な室内生活により一般に読書好きなのと、キリスト教的な婦人の啓蒙教育のおかげで、小説の世界で中流的だが、古典でジョージ・エリオットにしろ、ジェーン・オーステンにしろ、ブロンテ姉妹、ブラウニング夫人、ギャスケル夫人等なかなかしっかりした婦人作家を出した。
フランスはサロンと芸術の世界に婦人の解放された国として知られている。十八世紀のラファイエット夫人。ドイツのロマンチシズムをフランスに紹介しナポレオンをひどくきらったスタエル夫人。情熱的で作品の上にはっきりと婦人の社会的権利を主張したジョルジュ・サンド。現代でも詩人のノアイユ夫人。小説家のコレット。そのほか活動している婦人文学者は少くない。
だが、イギリス、フランスでも、数と質において総体的に見れば、婦人作家は男の作家に劣っている。
日本においては勿論そうだ。
同じ、ブルジョア文化発達過程の中でも、婦人の文化は一般的にいって男のもつ水準より低かったこと、日常生活の中では封建的な遺物がより多くおっかぶさって解放をおくらしていたことの、これは実に雄弁な証拠だ。
何故なら、どの国の、どの階級の文学でも、その発展はきっちりその国のその階級の経済的政治的地位、それに伴う文化の発達の程度と結びついている。
中世紀の文学は僧侶に独占されていた。中世期の封建的なヨーロッパに支配権をもっていたのは王と貴族と僧侶だった。貴族は武力を統帥し、僧侶は貴族階級のイデオローグとして最高の文化活動を担任していた。だからラテン語で書かれたその頃の文学は、どんな馬子によっても書かれなかった。ただ僧侶のものだった。当時は文盲の王があり貴族があった。
日本の現在までの婦人作家が、どういう階級から出て来ているかということを考えても、事実は一目瞭然だ。
日本の既成の婦人作家はプロレタリア作家といわれている人々をこめて、没落した小市民層かそれより以上の経済的基礎をもった層から出ている。
世界のプロレタリア解放運動は、その文化戦線をもふくめて、最近益々積極的ではあるが、残念ながら資本主義社会で大衆の文化教育機関とジャーナリズムとをプロレタリアの手の下におくところまでは行っていない。
それは、この間うちつづけて読売新聞紙に載っていた「処女航路を行く女流作家」という紹介を見てもわかる。
「処女航路を行く女流作家」というのはよんで字の通り商業的なジャーナリズムが自身の立場から新進の婦人作家を並べて、短い自己紹介の文章と写真とを一覧に供したものだ。十人ばかりの婦人作家の名があった。中には、女人芸術その他にもう何回か作品を発表していた人もあったし、もっとひどいのは既に過去数年間、文筆家として生活して来たような人も加えてあった。だが、問題は、そこにはない。新顔として紹介された婦人作家たちの中に、ハッキリ、プロレタリア文学を把握しようとしているらしい感想を書いていたのは二三人しかなかったこと、及、その十人ばかりの婦人作家たちは、みんな小中流以上の家庭の人で、文化学院などを出た人が相当あったことだ。
世界の経済恐慌によって、どこでも階級闘争は進展し、資本主義とその文化のもがきは、其等の新進婦人作家たちの短い抽象的な文章の中にさえ反映している。それでも商業ジャーナリズムは、遠かれ近かれ、自身の属す社会圏から婦人作家を見つけ出そうと焦っている。
紡績工場に働いている若い婦人労働者の中に、若しかしたら、面白いプロレタリア詩をつくる婦人はいないだろうか、とは考慮されていない。そこまで大衆の中に沈まないでも、例えば『ナップ』その他にこの頃一田アキという名で望みのある詩を書く婦人が現れている。しかしそういう新しい婦人詩人のところまでは新進を求める手をのばさない。
それにしても同じ資本主義社会の文化の中にありながら、過去において、婦人の文化水準が総体的に男にくらべてどうしても低かったというのは何故だろう? 婦人の一生にとって最も密接な影響をもっている家族制度に集中的にあらわれている日本の封建制が、全面的に婦人の発展をはばんでいる。一応婦人の自由が認められ、また女性尊重の風のある文学や科学、政治、経済という真面目な仕事に婦人の進出がまれであったことこそ資本主義の社会での文化の本質的な特徴なのだ。
人道主義的な動機から、キリスト教的な表現として、エレン・ケイがそれを主張して以来、わたしたちは母性の尊重とか、人間としての男女平等とかいう文句を毎日耳にしている。然し、世界の資本主義の社会は、果して現実に母性を尊重し男女平等の待遇をしているだろうか?
実例を、日本にとって見よう。
日本には、百五十三万四千三百十四名(一九三〇年六月、社会局)の婦人労働者があり、その六割六分までが工場労働者だ。資本主義社会の生産は、こうして夥しいプロレタリア婦人の労力によって運転されているのだが、資本家の利を守るために行われる産業合理化によって労働時間は九時間以上十一時間、十三時間(!)という驚くべき苛酷さだ。婦人労働者の賃銀は、一九二七年、工場労働者総数平均賃銀が、男二円十五銭に対して女はタッタ八十七銭だった。差は一円二十八銭という額にのぼっている。経済恐慌によってこのヤスイ賃銀もズルズル低下し、昨年頃は婦人工場労働者の平均賃銀は八十四銭まで落ちた。弁当もちで、交通費をもって、この有様だ。企業者は、この話にならない賃銀さえスラリとは渡さない。どの工場でも何よりみんなのいやがる罰金制、歩増制度、強制貯金などが行われているのは、誰でも知っている。日本では婦人労働者がその八割六分を占めている繊維工業者らは、実物供与、寄宿舎、光熱、被服、賄等を会社の手に独占して更にそこから儲けている。而も一九二五年、六百二十軒の工場で、宿舎に雨戸のあるのが[#「雨戸のあるのが」に傍点]二百四十九軒。雨戸のないのが[#「雨戸のないのが」に傍点]三百七十一軒という有様だ。そういうひどい条件で働いている十四から二十四五の婦人労働者は、どの位の文化程度をもっているものだろうか。不就学、さもなければ小学中途退学が一番多い。
その低い文化水準を高めるために、経営者たちは工場の寄宿舎につめられている労働婦人にどんなも
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