ものか」と痛感する佐々木をこめて一群の日本人が集まって個人的な問題を中心として議論したり、居住の地域を問題にしたり、宿主とケンカしたり、引っ越したり、一人の仲間が引っ越すとその仲間が遠い郊外の引越先まで行って見て、古い党員の下宿主からリンゴを貰って皮ごとカジって「何て同志的な雰囲気だ!」と感じたり――
 もちろん、そればかりが書かれてはいない。第二回世界ピオニェール大会のことも、ドイツの選挙のことも書かれているのだ。が、革命力の高揚しているドイツの情勢はその情勢だけ切りはなして説明的に描かれ、日本人群の日常生活の描写のうちへ滲透し、盛込まれ、不分離な力としては書かれていない。
 読んだあとの印象では、従ってドイツ・プロレタリアート・農民の巨大な燃える攻勢というものは消える。かえって、かたまり、うるさいほどに互の日常生活に口を入れあって、忙しい人間同志なら二の次、三の次になる問題を論議している一団の日本人の理屈っぽくて非現実的な生活だけが浮びあがるのだ。
 作者は、「その観点や構成は全部唯物弁証法的に意図した」と前書でいっている。
 決して、どうでもいいと書かれた作品ではない。そうとすれば、この巨大な主題を、唯物弁証法的にこなすこなしかたに、或いは主題の唯物弁証法的把握そのものに何かの不足があったことは明かだ。
 これは非常に有益な、興味ある穿鑿《せんさく》だ。何故なら、中條百合子がこの間うち『改造』にソヴェト同盟の紹介小説「ズラかった信吉」を書き、未完だが、やはり唯物弁証法的方法の点で失敗している。筆者は、ソヴェト同盟の大建設が世界プロレタリアート・農民にとってどんな意義をもつものかを書くのに、目的の大衆性に適応した物語りの形式を選ばず、小説の形で、信吉という人物を、主題に対して非唯物弁証法的に出している。

          五

 周密な用意と研究を必要とすることだが、「転換時代」にあらわれている唯物弁証法的把握上の失敗は、先ずどこか機械的な点で目立つ。
 書かれた点からだけ見ると作者は、こう考えたように見える。資本主義第三期の世界を書くのに、社会的に大きい事件ばっかり書くのは間違っている。あらゆる日常的な、些末なことがそれぞれみんな主題と関係している。又、積極的な面だけが重要ではない。消極的な部分も洩らされてはいけない、と。
 酒井とその宿主の婆との衝突、エルゼという人物などはそういう作者の見とおしで扱われている。コンムニストでも決して善玉揃いではない。「何しろ沢山の党員だし、古い歴史をもった党だからタマには蛆虫も湧くんさ。南京虫はどこにでもいる。」
 コンムニストが善玉揃いでないということはその限りにおいて真実だ。しかし、この少くとも第一部には、蛆虫も時には湧かせつつドイツの党がどれだけ大衆によって強力に組織され、世界プロレタリア解放のために闘っているかという積極的な点は、有機的にここに示された消極の一場面と結びついて閃いてはいない。――
 一つの主題を、唯物弁証法的に把握するということは、積極的な面と消極的な面とを、固定した姿で対立させることでないのは自明だ。社会的な大きい事件と日常的些事とをただチャンポンに一篇の中に置くことでもない。
 十月号の『ナップ』に「創作における唯物弁証法的方法に就ての覚え書」を書いた人にとってこんなABCは理屈としては問題外だろう。だが、実際の結果はそういう機械的な印象を与える失敗に陥っている。証拠には、あの一団の日本人の実際生活が、ベルリン大衆の革命的高揚とどういう関係にあり、かつまた遠い故国日本の階級的進展とどういう血の通った関係にあるかという基礎的な階級的位地が、弁証法的具体的に描き出されていない。
 一群の日本人は、切りはなされて浮き上っている。大衆的な行為、階級闘争への結びつきの実際過程のうちに現れたり消えたりする数人の日本人各々の持つ階級的積極性・消極性が、ひとりでにわかるようには書かれていない。坐って喋っている。グループ内でだけ、批評のための批評のような個人に関する批判が出て来る。それゆえ些末な日常的事件は、より広汎な、より能動的な社会的事件の一部=構成分子として吸収されず、どこまでも些末な事件そのものとしてのこるのだ。
 こう書いて来ると、「転換時代」第一部がその失敗において、多くのことをわれわれに教えるのがよくわかる。
 どだい、プロレタリア文学における国際的主題は種々の困難をもっているものだ。
 ソヴェト同盟のプロレタリア文学はその素晴らしい達成にもかかわらず、やはりこの国際的主題を扱ったいい作品のないことは関心の的となっている。
 旅行記、見聞記的論文はある。だが、ほんものの階級的インターナショナルの観点から、唯物弁証法的方法で書かれた小説は、ソヴェト同盟でもまだ出ていないのだ。然し、今日の地球上の情勢は、二つの世界、プロレタリア・農民インターナショナルの結成と、ファッショ化した世界ブルジョアの過渡的協力との対立をますます激化させつつある。
 プロレタリア文学は、当然、内国的主題をいよいよ具体的に国際的なプロレタリア・農民解放運動全般との結びつきにおいて深化させて行くとともに、一方、次第にこの「転換時代」に類する作品、又は、紹介的役割をもつ「ズラかった信吉」の更に数段成功的な作品が現れる可能が十分ある。
 内国的主題において国際的要素が強まるばかりではない。国際的主題そのものの発展が、プロレタリア文学の領域における主題の多様化にある功献をする時代が来ていることはすでに明かだ。この希望と見とおしで、われわれは一層活溌に、達成へ向っての勝利的自己批判を必要とする次第だ。
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(付記。ファッシズムに対して十分の抵抗を持ち得ない社会民主主義文学の中で国際的主題はどんな歪んだ形で取扱われているか。それについては別稿で書こうと思う。)[#地付き]〔一九三一年十月〕
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底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「読売新聞」
   1931(昭和6)年10月16、17、20〜22日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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