厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断乎とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯《ナイチンゲール》の持ちものであるはずはない。おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミヤでの業績をなしとげたのではなかった。この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯盥にかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
 戦争が終って四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミヤの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで流布した。
 世間的な名声は、クリミヤでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど
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