たとはいえ、正当にそれを発展の歴史として摂取し、それを文学の中に生かし得る実践の価値を発揮することを、文学活動の面での責任条件とされている。直接に自身が経験したあれこれのことを芸術以前の形で記録されることを意味しているのではない。それらの人々が、大衆の中での活動で身につけて来ている階級の具体的な特徴についての把握、複雑な現実の縺《もつ》れの間に歴史の帰趨を見抜く力、その積極的な押し進めのためにあり得る人間の力についての洞察によって、今日の現実を観察して描いてゆく。その点でブルジョア作家に期待し得るものとはおのずから種類を異にした芸術がこれらの人々から期待されるのである。
ところが、今日の実際に於て、そういう種類の作家たちから一般の読者が与えられている作品は、どういう性質のものであろうか。粗大な概括をすることを深く警戒するものであるが、今日までのところ、現れている作品は多く手法の上で何かの問題を持っていることを第二として、人間というものの捕え方に於て、先刻触れた二元性に陥っている傾向が見られる。かつて他の面で活動をしていた人々が、人間の「胸の琴線にふれる」文学の仕事に転じて来た時、センチメンタルになり、人間の観方、文学的表現等では、非常に抵抗少く過去の文学的常套に伏するのは何故であろうか。こういう経歴の作家に通有な文学に於ける面白さが、やはりブルジョア文学の一部の作家がいう面白さと類似したもの或は卑俗さに於て何ら質的に異ったものではなくなって現れて来ているというのは何故であろう。
村山知義氏は一人の能才者である。彼は画を描き戯曲を書き、新たな劇運動にとって欠くべからざる演出者の一人である。この二三年来は小説も書かれる。興味あることは、村山氏がゴーリキイの「どん底」を昨年新たな認識で上演し好評を博したことはわれわれの記憶に新しい。その同じ一人の芸術家が今月は『文芸』の誌上で、「父たち母たち」のような作品を示してくれる時、「どん底」を観、その目でこの小説を読みする一人の読者は、全く相似ない両面の心の形に対して、どう判断するであろう。芸術を愛する程の者ならば、村山氏に、芸術以前の形で分裂のままあらわれているこの矛盾をこそ、人間的なものとして讚歎しなければならない義務を負うているのであろうか。
小説というものには、小説としての美が要求される。これは明らかなことである。し
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