となっているのである。ファシズムに賛成しないというだけのところに限度を置いてそこに居据っていたのでは、今日の文化を進歩的な方向に進める思潮とはなり難い。更にそれから先、ではどうするかという問題が示唆されなければならない。日本の現実に即してリアリスティックに生活と芸術とに対する一般的態度としてこの示唆が必要なのである。先ずヒューマニズムを提唱している人自身が真面目にそれを一つの文芸思潮とすべき必要を自覚することが必要なのではなかろうか。
 ヒューマニズムがまとまった、行動の指導力を持った文芸思潮となるにはまだ先にも言ったような距離が残されているが、ヒューマニズムの翹望が今日の多数者の心にあることの実例として、一部で希望し、一部でそれを警戒しているほど日本にファシズム文学が現れて来ないという事実がある。文学の本質から言えばこれは当然のことであるし、人間性の主張という側から見れば寧ろ消極的な形ではあるが、今日の日本の諸事情に照して見れば、なかなか見逃すことの出来ない意義を持っている。ヒューマニズムの社会的、人間的な土台はここにもかくされていると思う。小林秀雄氏が最近の時評でいち早く自身が提唱した日本的なるもの[#「日本的なるもの」に傍点]の迷子になることを予言しており、ヒューマニズムも同様に行方知れずになるだろうと言っておられる。日本的なるもの[#「日本的なるもの」に傍点]がこれらの人々の間で迷子にならざるを得ない理由というものは誰にでも推察出来る。けれどもヒューマニズムがそれと全く同じように行方知れずに誤間化されてしまうということは、そう簡単に言い切れないと思う。何故ならばこれ等の間でヒューマニズムは、よしや行方不明になろうとも、別のところでヒューマニズムは存在し続ける社会的な可能を持っているからである。[#地付き]〔一九三七年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「雑記帳」
   1937(昭和12)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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