めての大衆が、自分たちの人間性をファシズムの轍から守ろうとする、その要求と行動とに於て、世界的に互が結ばれていることを感じているのである。
 従って、それぞれの国に於てヒューマニズムの現れは独自的な形をとっている。例えばフランスではヒューマニズムの運動は政治上の人民戦線政府の確立を土台として、文学芸術の方向を強い力で反ファシズムの方向へ動かしている。フランスで文化擁護の大会が持たれたりしたことは、ロマン・ローランの最近の文化的活動の傾向と共にはっきり我々に示されている。
 ドイツでは、またおのずから違った形で現れている。ヒットラー政権の下では、自由主義的な芸術家が国外へ追放され、政治的移民としてアムステルダムやパリに住み、世界文学史の上に前例のなかった移民文学を創造している。これらの人々は当然ヒューマニズムの立場にあるのであるが、更に注目すべきことは、ドイツの国内に「国内の移民」と言われている一団の作家、学者のあることである。これらの人々は、日々極めて不便な非合法的な境遇にありながら、強い根気と努力とでファシズムの文化政策に反対し、思想の自由と芸術の自主性とを守り続けている。旧臘ドイツの宣伝相が、芸術の「批評」を禁じて単なる鑑賞批評だけを許したことは、当時世界の視聴をその極端性でおどろかしたが、この非文化的な宣言を敢てしなければならないほど、ドイツの民衆の間には、自分の声で、人間らしい理性の具わった言論を求め、またその要求に応えているものが一方に存在しているという現実を語っているのである。
 中国に於ては、ヒューマニズムの運動は、その国の置かれている事情に従って、民族自立の問題と結びついている。先頃亡くなった中華のゴーリキイと言われた作家魯迅の存在は、全く以上のような特殊な国情を反映していた。
 さて、では日本に於けるヒューマニズムはどういう展望の下に置かれているであろうか。非常に複雑なものがある。第一日本では政治上の人民戦線が結ばれるに困難な事情があり、文化的な面から見ても、ヒューマニズムを提唱している人々自身の中に、左翼的なものを排する気分、その気分の合理化としてヒューマニズムが取上げられた傾向もあった。ヒューマニズムに於ける現実的な発展の方向をある意味では意識的にぼやかしていることは、日本に於てヒューマニズムが一つの指導的な新しい文芸思潮として高まり得ない弱点
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