ると説明しているのであるが、我々にとって興味ある事実は、この画期的意味をもった小冊子が当時の外国文学の潮流にのっとって著わされたに拘らず、バルザックの名には一字もふれられていないことである。
 開化期の明治文学の内容は翻訳小説に尽きていると言えるであろうが、ここでも我々の遭遇するのはシェクスピア、スコット、ユーゴーやデュマであり、巨大なバルザックの姿は見当らない。
 僅か三年ばかり前、新潮社が大規模に刊行した世界文学講座のフランス文学篇では、私共は正確なバルザックの略歴さえ知ることが出来ないし、更に昨今の流行とてらし合せて私達の感想を更に一層刺戟するのは、一九三〇年、プロレタリア芸術運動が高まって綜合雑誌『ナップ』が発刊されていた頃、山田清三郎・川口浩両氏によって編輯されたプロレタリア文芸辞典について、試みにハの部を索いて見ると、パルナシアンという字はあるが、バルザックという人名は見当らず、葉山嘉樹はあってバルザックはのせられていないことである。この辞典において、リアリズムに連関して現れている芸術家はゾラ、フローベル、モネ、セザンヌ等であり、しかも編者は明瞭な言葉でリアリズムの階級性にも言及している。「我々マルクス主義者の云うリアリズムをはき違えて、あたかもそれが十九世紀後半の写実主義と同一のものであるかの如く考える人々があるが、それは誤解の甚しきものである」と。
 バルザックの氾濫的な芸術作品の中に如何なる大きい矛盾があったればこそ、嘗ては急進的であったインテリゲンツィアの一部がその生活と文学とから階級性を抹殺している今日の日本に、かくも広汎な鑑賞をよび起しているのであろうか? 私達はその秘密を知りたく思うのである。

 オノレ・ド・バルザックは、一七九九年五月、フランスが共和政体となった第七年目に中部フランス、トゥールの町に生れた。
 貴族好みで「ド」をつけて自分の姓を呼んだが、バルザックの実際の家柄は貴族などではなく、彼が後年獰猛なのがその階級の特性だと云った農民バルザの孫息子である。
 父親のベルナールはタルン県の村を出て学問をうけ、大革命時代には弁護士をやった。後、陸軍の経理部に入って、世間の血なまぐさい騒ぎと自分の財布とが或る落付きを得た五十一歳の時三十二も年下のロオルという上役の娘を妻にした。
 いかにも南フランスの農民出らしい頑丈な、陽気な、そして幾らかホラ吹きな父ベルナールと、生粋のパリッ子で実際的な活動家で情がふかいと同時に小言も多い若い母との間に、三人の子があったが、その総領として「よく太った、下膨れの顔の、冬になると手足にいっぱい霜やけの出来る」オノレが生れたのである。
 カトリック教のひどくきびしい寄宿学校に八つのときから六年間も入れられ、あまり器用に立ちまわれないこの生徒は、終りに衰弱で半分死にかけるような苦労をした。そこで家に引きとられ、通学で十七の年法律学校を卒業した。バルザックが、文筆生活をはじめたのはそれから三年後、二十歳のときであるが、それも決してすらりと行ったわけではなく、父親ベルナールは息子を法律家に仕立てて立身させようと考えた。そしていよいよ事務所まで買いかけたことがわかった時、大柄なずんぐりな二十の息子であるバルザックは父親と大論判をはじめた。バルザックはどうしても文学をやるのだと云って「大声に泣き叫ぶ」騒動を演じた。
 母のとりなし、特に妹のロオルの支持で、バルザックの作家志望は遂にきき届けられた。然し、それには一つ妙な、父親の地方人らしい、実利的な条件がついた。二年間だけ好きにさせてやるから、その間にものになれと云うのである。
 喜び勇んだバルザックはアルスナール図書館近くの屋根裏に一部屋をかり、寝台と机と二三脚の椅子と、餓え死しないだけの仕送りとをもって、愈々《いよいよ》「ナポレオンが剣によって始めたところを筆によって成就する」ため、復古時代から七月革命を経て、複雑きわまりなく推移しつつあったパリの生活へ飛びこんだのであった。
 当時、フランスは、将に「中産階級が歴史の舞台へ決定的にのり出して来た」一大時代であった。工業が発達し、商業が自由になり「ナポレオンによって全ヨーロッパに及ぼされた国富の新しい配分が、特にフランスにおいてその実を結びはじめ」ると同時に、大革命時代に「没収されていた教会僧院の財産は勿論、或は分割され、或は競売に附せられた貴族の財産も亦今や嚮日とは比較にならない程数多い新所有者の手に帰したのである。従って金銭がブルジョア生活の動力となり、又同時に万人の渇望の対象となった」激烈な時代であった。
 七月革命で、ブルジョアジーの利害の代表者としてのルイ・フィリップが王位に置かれた後は財界の覇者、金銭の威力は極度にふるわれ、企業家で金持ちの成上り貴族によって土地所
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