界の必然が分らないということは、いわゆる文化人には出来かねる。自分の分らない技術によって組立てられている世界、そしてその芸術は莫大な金銭によってあがなわれ、大家といわれているとき、文化感覚の中にある卑屈な事大主義が社会人として正直な、しかしそれは素人の批評である批評をひかえめにさせる。そのために大局からみれば梅原龍三郎をかれの世界へ停滞させて、とりまきにおだてさせておく事情になるし、より新しい美術の生れて来る生活感情へのもだえを消し批判と新しい創造力をあいまいにする。
例えばピカソの画についてどれだけの人がピカソの世界の必然性を実感するだろう。ピカソの画が分らないということは画が分らないということではない。スペインの頽廃した近代の歴史と、そこで生れたピカソがパリに暮して絵画の世界市場で自分の存在をあらそって来た過程でかれの芸術がどのような変転をしてきたかという、その現実に突き入って理解しなければピカソは分らない。近代ヨーロッパの芸術、特に絵画は資本主義の社会がきずきあげた個人主義のもっとも集中的な表現をもっている。ピカソの世界は社会的な源泉の上に立ちながら芸術としての領域においては全く個人的な封鎖をされている。ピカソとマチスを並べてみてある共通性があるとしても、それぞれ独自の世界であり、ルオーのグロテスクは武者小路実篤にわかると思われていても数百万の勤労者に分らないのが自然である。美術品も商品である。これが資本主義社会での美術である。画商の存在の意義を考えればよく分る。
芸術における独自性と独得なテンペラメントと、商品としての独自性の必要とはブルジョア画家の画業のうちにかなしくまじりあってかれらをかりたてている。
近代の絵画の一ツの特徴のようになっているディフォーメイションということは、今日、重大に考え直されねばなるまい。音楽上のディフォーメイション、文学上のディフォーメイション、それはどれもみんな主観的な角度で或は感覚で客観的な現実を別の形に変形させること、つまりディフォームさせることである。
人間精神の美と客観的真実とはディフォーメイションであるだろうか。ルネサンスにディフォーメイションがあったろうか。鋳型にはめたような中世の肖像画からレオナルドの生きた人間がおどり出した。ディフォーメイションは大づかみにいえばそのものとして発展する新しさを失った、近代の
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