なものとして完全にロシアへかえって来たのはツルゲーネフが遺骸となった時であった。
 当時のロシア作家としては全く特殊なパリへの半移民的生活をもってツルゲーネフが一生を終るに至った動機は、抑々《そもそも》何であったのであろうか。
 ツルゲーネフは、そのことに関し回想記の中でこう書いているそうである。「私は自分の憎むものと同じ空気を呼吸することが出来なかった。それには性格の強さが足りなかったのであろう。わたしは敵に対してより強い打撃を加えるために、自分の敵から遠ざることが必要であった。この敵は私の目に一定の現象を備え、一定の名をもっている。――それはほかならぬ農奴制度である」
 これは彼の心持の真実の一面であろう。ツルゲーネフはゲルツェン会の伝統をもってニェクラーソフ、ベリンスキー等とともに西欧派に属するユートピア的社会主義者であり、当時のロシアよりも早く資本主義が発達しているヨーロッパ諸国、特にフランス・インテリゲンツィアの理想主義的解放論に深く影響されていた。その上彼自身が率直に認めている性根の弱さ、そして彼に関するあらゆる伝記者がツルゲーネフの進歩的なものに対する敏感さとともに特筆している意志の弱さ、優柔不断な気質などが作用して、彼は同時代の西欧派に属する芸術家、思想家でもニェクラーソフやベリンスキーがしたように、ロシアの中でツァーリズムの暗黒と日夜闘いつつ果敢に新しい時代を啓いてゆく仕事に従事することには堪えず、自身は遠のいてパリからの目で「ロシアの破船的状態」を憂わしげに観察し、そこから無限の努力を経て頭をもたげ新しい歴史を担おうとする若いロシアの男女のタイプを観察し、小説に描くことになったことも理解されるのである。
 ブランデスは、同じ評伝の中で、ツルゲーネフがロシア散文家中最大の芸術家となったと思われた理由をこう云っている。「それは彼等のうちで、彼が一番多く外国に住ったからのことであろう。彼が本国から齎した詩の泉は、永くフランスに滞在したことによって増されはしなかったが、それによって彼の芸術を硝子と額縁とに入れる術を学んだのである」と。
 この観察は、ツルゲーネフの生涯とその文学活動を理解するために非常に深く鋭い示唆を含んでいると思う。何故ならば、パリの半移民として獲得したこの術によって、ツルゲーネフは「ルージン」を、「その前夜」を、そして「父と子」、「処
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