た。
モスクワにあるのは、部分的な景気なんぞじゃない。いつかどかんと下るかも知れない景気なんてものじゃない。ハッキリ方針があって、そこへ極めて計画的にジリ・ジリと社会全体がのし[#「のし」に傍点]あがって行ってるんだ。
トラックへのったり、てくったりして、「鋤」の突撃隊はいろんな工場や、生産組合事務所や区ソヴェトへ接触した。
信吉は、吸いよせられるような注意で、大きな机に向って書類をひっくりかえす元労働者の工場長を観察した。
運輸課の連中の種々雑多な声といろんな紙片とを見た。
廻送されなかった送り状とか、二日前に打たれてた筈の電報がまだアルミニュームの籠の底にへばりついていたり、いろんな事務の渋滞がある。討論がおっぱじまる。
突撃隊の腰のつよさに、信吉はびっくりした。根気のいい押問答や、説服の末、最後に勝利を得るんだが、事情がこん[#「こん」に傍点]がらかったとき、突撃隊の連中に勝味を与えるのは、いつも例の、柔軟な、どんなに曲げても、ヒッぱたいても千切れっこない共通の力と、見通しだ。
ヤーシャが、自分より倍も年長な、堂々楔髯をつけ女秘書をつれた生産組合部長に悠々、うわて[#「うわて」に傍点]にさえ出る。その自信をヤーシャに与えるのは、何か?
工場から帰って来ると、信吉は自分の室の寝台に仰向にころがって、よくその日の出来事、些細な言葉とか心にのこってる印象などを考える癖がついた。
後で、ひとりでに思い出せるような際だった事柄をたどって見ると、キット、どんづまりは、光みたいに力づよく漲って、みんなを引っぱっているものにぶつかる。
これこそ、〔四字伏字〕プロレタリアートの階級の力だ。が、その力もいわれなしには来ない。力となる科学的な理論があるからだ。ストライキ。〔二字伏字〕。〔三字伏字〕。現在の目醒ましい社会主義建設と水火をくぐって、〔十一字伏字〕のものと極めのついた指導理論を、みんなが腹にいれてるからこそ、ジリリ、ジリリとブルジュアどもを地球の上から押しのけ出したんだ。
この頃んなって、信吉は、〔八字伏字〕というものについて、自分がどんなウソ八百をきかされ、嚇《おど》かされていたか、つくづく知った。
ブルジュアは、〔五字伏字〕がホントに〔九字伏字〕するもんだと知ってるからこそ、その運動を搾め殺そうとするんだ。
太陽は八月の太陽だが、空に秋らしい小さい白雲が浮いてる。楡の枝が、横に張った古い板塀越しにサヤサヤ揺れてる。大きい楡の葉はもう黄色くなりかけている。
日本だったら、カナカナの盛に鳴く刻限、蝉もいないモスクワの中庭で、信吉はテーブルによっかかって、ペーチャの手許を眺めている。
ペーチャの親父は荷馬車ひきだ。おふくろはチブスで死んでいない。ピオニェールだ。ペーチャは赤い大判の紙をテーブル一杯にひろげ、そこへ鉛筆で作図しちゃ、鋏で切りぬきをやっている。
「……どうだったい? 魚とれたかね?」
信吉がきいた。
「余りいやしなかったんだよ、その河には。……でも一遍魚スープをこさえたよ」
モスクワ各区がそれぞれピオニェールの夏の野営地をもっている。ペーチャはソコーリスキー区の野営に一月行って、つい二三日前帰って来たばっかりだ。
「何匹とった」
「二匹」
「どんな奴?」
「……この位だ」
すっかり日にやけた雀斑《そばかす》のある手で、テーブルにころがってる鉛筆を示した。
「それを何人で喰ったのさ」
「十人ぐらいいたヨ」
信吉は思わずふき出した。
「どうしサ、みんなたっぷり汁をのんだよ!」
顔もあげず、ペーチャは赤い紙をきりぬきつづけてる。だんだん人間の横顔らしいものがハッキリして来た。
「――レーニンだね」
「うん」
襟のところでレーニンの顔と向い合わせの一つづきに、もう一つ別の顔をきりはじめた。――マルクスにしちゃ髯がない。
「そっちは誰だい?」
「リープクネヒトさ!――九月第一日曜の国際青年デーに、僕たちの級じゃ、とても素敵な、特輯壁新聞出すんだヨ。『鋤』じゃ何仕度してる?」
「鋤」でも、国際青年デーの大衆的デモに持ち出す音楽の稽古で、昼休みのクラブときたら、騒ぎだ。
今日も広間じゅうを這いまわって、男女のコムソモーレツたちがプラカートへソヴェト同盟ヲ守レ![#「ソヴェト同盟ヲ守レ!」に枠線]と云うスローガンを書いてた。
色つやのいい唇をキット引しめ、気をつけてカール・リープクネヒトの秀でた額際をきりぬくと、ペーチャは、二つつづきの指導者たちの像を、ちょっと顔から遠くへはなして眺めた。
満足そうにところどころ仕上げの鋏を入れながら、ふと信吉に云った。
「――お前何故コムソモーレツにならないのサ」
――テーブルによっかかったまんま、信吉の顔は目立たない程赧くなった。――そう云われて、する返事が信吉のとこにはない。
「……いろんなことを知らなくっちゃなれないだろ?」
寧ろきくように、暫くして信吉が云った。
「どうして!」
ペーチャは、大切に肖像を鋏のおもしで傍へのけ、丁寧に赤い紙の切屑を揃えはじめた。
「みんな始めは何にも知りゃしないよ」
道具をあつめて、ペーチャは、間もなく窓に蛙入りの瓶が置いてある自分の家へ入ってしまった。
テーブルのわきの、掃かれた黒い地面に、ポッツリ赤い紙切れが一枚散っている。
信吉は、落ちて来た楡の葉の軸を我知らず噛みながら考えつづけた。――ほんとに、何故俺はコムソモーレツにならないんだろう……。
地面の赤い円い紙キレは、初秋の日光を吸いよせてそこにいつまでも光った。
底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
1931(昭和6)年7〜9月号
※底本の親本(河出書房版「宮本百合子全集))校訂者によって復元された初出の伏せ字は、底本では当該箇所に「×」を傍記して示してある。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年5月4日作成
2003年7月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全12ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング