わきの疣政《えぼまさ》に訊いた。
「二十七度だと休みなんかね?」
「零下、二十五度より寒けりゃ働かしてなんねえっていう規則がソヴェト政府から出てるんだ」
 みんながゆっくり飯場にかまえこんでいるところへ、ハゲ小林が入って来た。
「出ねえのか?」
 すると、さっきの若いのが威勢のいい声で、
「今日は二十七度だ」
と云った。ハゲ小林は、それなりストーブの前へ行って暫くあたってたが黙ってまた出て行った。
 信吉は、何だか愉快でたまらなかった。今日はゾックリ自分たちの身丈が伸びて、ハゲ小林も事務所の奴等も目の下に見るようだ。寒暖計が下ってるうちは奴等あ、何としたって働かすことは出来ねえ。日給つきの休みだ!
 日が出きれないうちに吹雪《ふぶ》きになった。
 昼すぎ、バラックから小便しに出た信吉は、ロシア人バラックに人がたかってるのを見つけた。
 喧嘩がはじまったか?
 休み気分でブラリと行って見たら、バラックの内では茶番みたいなことをやってる。
 ルバーシカを着て鳥打帽かぶった若い男が本を抱えて歩いて行く。すると、こっちから、空罐のデカイのを頭へのっけて、外套へあっちこっちに手を通した髯の長い奴が、チョコチョコ小刻みにやって来た。
 鳥打帽は、それを見るといそいで寝台のかげへかくれた。やりすごしといて、いきなり後から組つき、はりとばした。頭から空罐がスッ飛んでがんがららん。えらい騒ぎだ。ぶっこかされながら外套へあっちこっちに手を通した奴が、大きな声で何か云った。ワーッ。見物が笑う。
 鳥打帽はとうとうとりかえっこに、自分が空罐かぶって、髯長に本をもたせて、鳥打帽をかぶせちまった。そして素早くまたかくれた。
 今は鳥打をかぶらされ、ルバーシカだけになった髯長がヨタヨタ行きかけようとすると、またまた忍びよった者がある。棒をもってる。ルバーシカの胸にビールの口金をとって勲章につけている。
 こん畜生!
というような掛声もろとも、これは手荒い。さんざん棒でひっぱたいて、クタリとなった奴をひっかついで、勲章を撫で撫で引こんだ。かくれていた元の鳥打が、姿を現す。
 何とかかんとか、ウラーッ!
 ウラーアッ! バラックを揺がす大喝采だ。
 信吉にも、労働者らしい鳥打の方がよくて、ビールの口金を勲章にしたのや空罐をかぶったのは敵役だということだけは分る。伸びあがって笑いながら、山羊皮外套に防寒帽をかぶったまんまでつめかけてるロシア人に混って手を叩いていたら、
「――どうだい」
 声かけた者がある。朝、二十七度だぞウと怒鳴った若い男だった。

        四

 これがきっかけで信吉は松太と、だんだん親しく話をするようになった。
 ちょうど、二十七度休み[#「二十七度休み」に傍点]があった十日ばかり後の宵のくちだ。ロシア労働者たちが、星空の下に白く凍った雪を絶えず、キ、キ、と鳴らしながら林の間を三号バラックの方へ集ってゆく姿が見えた。
 この間の茶番以来、信吉はロシアバラックの生活ぶりに好奇心を抱いている。いい加減集りきった頃をはかって、自分も行って覗きこんだ。
 へえ。……今日はまた、やに真面目なんだね。演説だ。バラックの奥ではランプの明りで赤い髪を火のように光らせながら、一人の若い男が立って喋ってる。ときどきつっかえる。そうかと思うとタワーリシチー! レーニン何とかかんとか※[#感嘆符二つ、1−8−75] 大きな声で叫んで拳固を上から下へ振りまわす。
 その男がすむと、眼っかちの、無精髭をはやした小男だ。唾をとばしながら何か云っちゃあ、裾のひきずるほどだぶだぶな自分の山羊皮外套を、片手にひっ掴んだ防寒帽でもってバサッ、バサッとしばく。
 信吉は、丸まっちい鼻をおかしそうにひくつかせて、のり出した。こいつ! 見覚があるぞ。山で馬を追うときまるだしの恰好で喋ってやがる――。
 だが、みんな何をいきまいて演説してるんだろう?
 袖を通さず羽織った外套の襟を押えてちょっと前へ出ようとしたときだ。誰かが後から肩を押えた。ロシア人だろうと思って振向くと、ハゲ小林だ。
「来い」
 信吉には訳がわからない。
「出ろ。聞えねえのか」
 体をよじってロシア人の間をバラックの外へ出ると、
「何していた」
 歩きながら、ハゲ小林が低いドス声で訊問した。
「何って……見てただけだ」
「うろつくんじゃねえ。変な真似して見ろ、敦賀へ上るなり引っくくらせるぞ!」
 ハゲ小林が事務所の方へ行ってしまうと、信吉はチェッ! 雪の上へ唾をした。演説を見物したからって一々引っくくられて堪るけ!
 翌日、昼休みの後で、松太が、
「昨夜《よんべ》、どした」
 信吉の働いてるわきへよって来た。
「……いたのか? お前も」
「…………」
「何の演説だったんだろ」
「レーニンの死んだ日よ、昨日は」
「ふーん――ハゲの奴、ちょいちょい三号バラックなんぞさ行くのか?」
「見張ってやがんのよ」
「なして! バカバカしい。一つとこで働いてるロシア人にも近よっちゃいけねのか?」
「だって、お前」
 松太は、ゆっくりした口調で云った。
「日本人夫がみんなソヴェト労働者のやり振りを知った日にゃ、このまんまじゃ〔五字伏字〕」
 橇へつけて出す材木へ二人して符牒を入れているところだ。
「会社は日本人夫をあっちさ近づけめえ、近づけめえとしているんだ」
「…………」
「ロシア人夫あ、お前、俺等みてえにてんでんバラバラに狩りあつめられて来たんじゃねえ。自分の組合もってて、政府の職業紹介所から団体契約で来てるんだ。そんだから、××林業にとっちゃ日本人夫なんぞ一人や二人どうしようとこわくねえ。奴等の都合で難癖つけて今日んでもボイこくれるが、ロシア人夫にそりゃ出来ねえんだ」
「なしてだい」
「組合の規則でよ!」
 太い声を松太が出した。
「ソヴェトじゃ、組合の規則で労働者がてんでの権利ってものをちゃんときめているんだ。賃銀のたかも、解雇するにも組合の規則でやらなくちゃなんねえ。工場なんかじゃ、お前、一年に一ヵ月も有給休暇があって、労働者が休みに行く家まで政府からわり当てられているんだとよ」
 また別なとき、松太がこんなことを云った。
「こんな山ん中じゃわかんねえが、なんでもモスクワは今大した景気でおっつけアメリカ追いこすぐれえだとよ。どこもかしこも人増しで、引っぱり凧だとよ。日本の不景気た大ちげえだ!」
 信吉は、だんだん自分が来ている土地について考えるようになった。
 山から上って、バラックでみんな寝ころがってボヤボヤしているようなとき、信吉は急に、こうしちゃいられね! という気になって坐り直した。とってもおかしいじゃねえか。ここは世界のどこにもまだ無い労働者の国なんだ。ソヴェトだ。××林業の日本人足のバラックだけが、わざと痺《しび》らされて何にも知らずボーとしてるが、つい山の外じゃ、もっと、もっと何か素晴らしいことがあるに違えねんだ! そうじゃねえか? ここの地べたに生えてる木を伐ってるだけで、八時間労働に有給休日という、内地じゃめぐり会えねえ思いをしているんだ。
 信吉は、目立たないようにハゲ小林からルーブリをひき出した。
 春になった。アムグーン川が流れだした。日本人夫は、トビ口をかついで、春の泥濘《ぬかるみ》にすべりながら低い川岸に散らばった。
 村に近い番屋で働くようになると、人夫の金使いが荒くなった。
 山から吹く風は冷たいが、太陽は汗ばむぐらいにぬくんで濁って水嵩のましたアムグーンの面や、そこを浮いて行く材木を照らした。川岸の腐った落葉の下から白い小さい雪割草の花が開いている。
 源がジャケツに腹がけ姿でトビ口に靠《もた》れながら或るとき、
「この川っぷちとも今年でおさらばか……」
と云った。わきに蹲《しゃが》んで、草の芽生えを眺めてた信吉は、顔をあげて訊いた。
「……なしてだい」
「この会社も、もう来年までやっちゃいかれめえよ。何せソヴェトじゃ労働者が主人で労働法がガン張ってるから、内地みてえにいろんな口実つけちゃ労働者をキッキと搾れねえ。内地の景気あガタ落ちでも、ここで材木一本伐り出す費用にゃかわりがねえんだ。それに、なんだってえもの、この頃は逆にこっちの景気がよくって、今に日当が三四割がた上るって話だもん、お前、会社あたまらねえや」
 源は、手洟《てばな》をかんだ。〔十七字伏字〕が土台から違うんだ。
 いよいよ、××林業の現場引あげが目の前に迫ると、若い信吉の心は苦しくなった。
 半年、大きくゆったりしたロシアの山の中で働いた後、喜久地村のいじけた希望のない暮しへは何としても戻る気になれない。この折をのがしたら、もう二度と日本は出られない。手をのばしさえしたら、途方もない幸福がありそうなこのソヴェトというところへは来れないんだ。今、この折をのがしたら。――
 ロシアの春の夜の濃い闇の中で、信吉は幾晩も長いこと寝がえりうった。この機会をのがしたら、今はずしたら、いつ、うだつの上るときが来べ?――
 信吉はとうとう、明日××林業株式会社事務所出張所へ総集合という前の晩、谷間の六号番屋をズラかった。

        五

 だから、モスクワ行三等列車の棚の上で、卯太郎の手紙を眺める信吉の心は、しんみりしている。
 上《のぼり》列車がジマーというところで停ったときのことだ。みんながらがら汽車を出て行く。信吉も、カラーなしの縞シャツの上から黒い上衣をひっかけて、片手にヤカンをぶらさげ、群集にまじって熱湯配給所へ出かけた。
 もう、ずらっと男女の列だ。昔から、ロシアの停車場にはこういうところがついていて、旅客はただで湯をとり、自分の坐席で茶を入れて飲む習慣だ。
 熱湯配給所の小舎のわき、棚の前へ土地の物売りが並んでいる。
 ゴムの尻当てみたいな輪パンがあるナ。いくらだ? 四十五カペイキ? たけえ!
 樺の木の皮へつつんだバタを売ってる女がある。
 次は――玉子。
 バケツに塩漬|胡瓜《きゅうり》を入れて足元においている婆さんから信吉はそれを三本買った。ナイフで薄くきってパンにのせて食うんだ。
 焼豚の脂肉《あぶらみ》――
 鶏の丸焼もあるが、ヤカンを下げた連中は値をきくだけで通りすぎちまう。
 やっぱり気をつけて金をつかってるんだ。
 柵が終ろうとするところに、桃色の布をかぶった十五六のぼってりしたロシア娘が、可愛らしい口に細かい黄色い花の小枝を咬えながら、牛乳を売っている。
 信吉は何しろ財布があやしいから胡瓜やオーブラ(干魚)で幾日もしのいで来ている。不意と濃い牛乳を流しこんで見たくなった。
「なんぼ?」
 四合瓶に一杯つめたのを指して訊いた。
「五十カペイキ」
 しめ、しめ! 確にそうきいたと思い、信吉は牛乳瓶をとって、娘の手へ五十カペイキわたした。
 すると、どうしたこった! 娘はいきなり口から花の枝をほき出すなり大きな声で何か叫んだ。信吉の手元へとびついて来て、持ってる牛乳瓶をひったくろうとする。冗談か? そうじゃない。何すんだ! 不意をくらった信吉が思わず肱で娘をよけようとした拍子に、ヤカンからちょんびり湯がこぼれた。娘の足にそれがかかった。娘は大業な悲鳴をあげた。
 瞬間の出来ごとだった。が、忽ちまわりに人がたかって来た。
 何だい。
 どうしたんだ。
 支那人じゃないか?
 すると娘は、涙も出ていないのに甲高な啜《すす》りあげるような早口で、何か訴える。何を云うのかわかりゃしない。
 信吉は面倒だから、人の間をぬけて出てしまおうとした。どっこい! いつの間にか、四十がらみの黒ルバーシカを着た大きい男が信吉の肱を軟かく、しかし要領よく掴んでいる。
「|買ったんだよ《クピール》! |買ったんだよ《クピール》! うるせえ奴だナ」
 それをおっかぶせて、娘がまた啜りあげるような早口でまくしたてる。――
 途方にくれた信吉が、そのときオヤという顔をして人だかりのあっちを見た。視線を追って、数人がそっちを見た。
 何だ?
 ――日本人だ。
 いい装《なり》をしているんで、尊敬をふくんだ云いかた
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