」
「――一本の歯になりゃその一本でソヴェトに噛みつこうとしやがる」
憎々しげに、隣に住んでるブリキ屋が室へかえりながら呟いた。グリーゼルは工場主で、革命まではこの大きい建物を全部自分で持って貸していたんだそうだ。
「土曜日だろう? 今夜は。……ソーレ見な。だから云うのさ、ニキータの婆さんだって今に見な、『軽騎隊』にひっかかるから」
ソヴェト同盟では、禁酒運動が盛だ。土曜、日曜に、モスクワの購買組合では一切酒類を売らない。ピオニェールや青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》が、官僚主義の排撃や禁酒運動のために活動する。その団体が「軽騎隊」なんだ。
暫くして、
「おい! いい加減にして来ねえか!」
横になってる信吉のところまで、怒ったブリキヤの声で廊下の女房を呼ぶのが聞えた。
今朝は、然し何も彼もいつもどおりだ。
内庭で信吉は建物の別な翼から出て来るエレーナに行き会った。
腕に買物籠をひっかけたエレーナは、信吉を見ると、後れ毛をかきあげるような風をして持ち前のカサカサ声で挨拶した。養育料請求のとき証人になってやってから、エレーナは信吉と口を利くようになったんだ。
「――知ってるか? グリーゼルが昨夜引っぱられたよ」
「知ってるよ」
二人は並んで古い木の門を出た。
「……お前困りゃしないのか? 金はどうするんだい?」
エレーナは、俯いて歩いてはいるが穏やかな悄気《しょげ》てない調子で、
「私は安心してるよ」
と云った。
「お金は、労働矯正所の方からチャンと送ってくれるんだってもの……あすこにはいい紡績工場があって、出て来れば工場へ入れるようにしてくれるんだヨ」
「ふーん」
「お前知らないだろ?」
熱心な口調でエレーナが云った。
「あすこには、学校も劇場もあるんだってさ。……私は安心してるよ。大抵よくなるんだもの、帰って来ると」
「グリーゼル、前にも行ったのか?」
「あの男は初めてだろう。……でも私知ってるんだもの……」
ソヴェトでは、監獄というものが資本主義国とはまるで別な考えかたで建てられてる。エレーナの不充分な言葉にこもっている信頼から、信吉はそれをつよく感じた。
「……私の死んだお父つぁんがね、行ったことがあるんだよ。それは工場で、みんなに渡す作業服の買入れをごまかしたからなんだけれど。――本を読むようになって帰って来たもの……そして、それから
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