ひろいモスクワ河を、ボートがゆっくり溯っている。
 上流に鉄橋だ。
 右岸は空地で電車終点だ。西日で燦めきにくるまれた空に遠い建築場の足場が黒く浮立ち、更に遠方で教会の円屋根が金色に閃いてる。
 ボートを借りて来た職業組合ボート繋留場の赤紙の下では、後から来た一団の男女が、手前へかきよせられるボートを見てる。立ってる一人一人の姿が小さく、ハッキリ中流から見えた。
 左手はひろい「文化と休み公園」だ。
 水泳の高い飛び込み台がある。水をはねかしたり、泳いだりする頭、肩、腕がゴチャゴチャ台の下にある。女の貫くような、嬉しそうな叫び声。笑いながら若い男がよく響く声で何か云ってる。バシャ、バシャ水を掻く音。
 公園から音楽が聴えて来る。
 ミチキンは黙ったまんま、休み日の愉しさを一漕ぎごとに味ってるように、力を入れて漕いでる。
 今日はミチキンにとって特別な日だ。命名日だ。その上、個人営業をやめて靴工場で働くようになってからはじめての休みだ。信吉、アンナ、アグーシャはミチキンのお祝によばれてモスクワ河へ遊びに来ているというわけなんだ。
 公園をはずれると、景色がかわった。
 楊柳が濃い枝を水へつけ、水ぎわのベンチに年とった夫婦が腰かけて日没のモスクワ河を眺めてる。
 オールをあげて浮いているボートがあっちこっちにあった。どのボートにも男女の上にも、いっぱいの西日だ。
 河の上の西日は大して暑くない。――
「なに?」
 アグーシャが、アンナの目交ぜにききかえし、訝しそうに自分の膝の下で寝ころがってる信吉の顔を見下した。が、彼女の口元もアンナと同じようにだんだん微笑でゆるんだ。
「……わるくないじゃないか――」
 ひょっくり信吉が頭をもちゃげた。
「何がよ……」
 アグーシャとアンナは声を揃えて笑った。アグーシャが信吉の肩を力のある手の平でポンと叩いた。
「今お前の頭へのっかってた娘は何て名?」
「バカ!」
 信吉は赧い顔した。
「どうして? 結構じゃないの? お前だってもうおふくろの裾へつかまって歩く坊やじゃないんだもの」
 ミチキンがあっち向いて漕ぎながら真面目な声できいた。
「職場にいい娘いるか?」
「いる」
 信吉は、オーリャはここへ来たかしらとボンヤリ考えてたところだったのだ。
 鉄橋の下まで行って戻って来たら、公園の下のところは、集って来たボートでオールとオールとが
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