所は明るい。窓が晴れやかに開いて、その窓際に台があって、薄い色の髪の毛がすきとおるような工合に光線を受け一人の背広をきた中老人がハムを刻んでいる。わきに小鍋と玉子が二つころがっていた。
 むき出しの頑丈そうな腕を大きい胸の上に組んで、白い布をかぶった女が中老学者の家事ぶりを眺めていた。彼女は日本女を見ると珍しそうに目で笑い、だが何にも余計なことをいわず、頼まれただけの湯呑《クルーシュカ》と急須とをゆっくり棚からとってくれた。湯呑《クルーシュカ》の一つに赤旗を背景に麦束をかこんだ鎌と鎚の模様がついていて、黒い文字で「万国のプロレタリアート、結合せよ!」
 ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河のはやいひろい音のない流れでめまいしそうなのは表側――河岸通に向った室だけだった。壁画のある、天井の高い大食堂の窓からは、灰色のうろこ形スレートぶきの小屋根、その頂上の風見の鳩、もと礼拝所であったらしい小さい四角い塔などが狭くかたまって見えた。塔の内に大小三つの鐘があるのも見える。
 ガラス張の屋内温室の、棕梠や仙人掌《サボテン》の間に籐椅子がいくつかあり、その一つの上に外国新聞がおきっぱなしになっている。人がいた様子だけあって、そこいらはしんとしている。
 大階段の大理石の手すりにもたれて下をのぞいたら、表玄関が閉っていてほこらのように薄暗かった。ぼんやりその裏から白と黒との大理石モザイックが見える。
 思いがけない直ぐうしろでかなり乱暴に戸が開いた。派手な紅どんすで張った室内の壁や、椅子や、天井の金色枠が、人の出て来る拍子に見えた。ここにも寝台がいくつか入れられている。その人は、うつむいて気ぜわしそうに眼鏡をかけ直しながら食堂の方へ去った。
 防寒のために荒羅紗を入れ、黒い油布を張った上から鋲をうちつけた、あたりまえのロシアの戸だ。そこが「学者の家」の常用口だ。一番下に「風呂」という札が出ている。風呂はどこになるのか誰のためにその札が出してあるのか分らない。(住んでる者は毎朝風呂の横で顔を洗っているのだから。)
 中庭がある。木煉瓦が一面敷つめてある。中庭の中央に物置小屋みたいなものがあり、横のあき地に赤錆のついた古金網、ねじ曲った鉄棒、寝台の部分品のこわれなどがウンと積まれている。
 半地下室の窓が二つ、その古金物の堆積に向って開いている。女がならんで洗濯している。
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