上のことだという説明が加えられているのである。
『中央公論』の新年号に訳載されているのは、紀行の第三節までである。あと、どの位つづいているものであろうか。とにかく、第一節において、ジイドは、心を傾けてソヴェトに開花している日常生活の幸福そうな明るさ、行き届いた文化的施設、どこの国においてよりも深く強くヒューマニティーを感じさせる人間と人間との接触、共感、民衆が享有している非常に長い青年期の高い価値と美とを称讚し、描写している。
ジイドが、長い前置と著しい精神の緊張とをもって輝やかしいソヴェトに見のがすべからざる誤謬と観察したのは、主として、社会生活に現れている「異常な画一」「非個性化」民衆はそこに偽善があろうなどとは夢にも思わない程それに馴らされている「画一主義」「プラウダ紙によって彼等が知り、考え、信じるにふさわしいことを教えられ」たままでいるために生じていると観察された幸福の可能性についてである。ジイドは、ソヴェトの民衆が世界のどこの国の民衆より幸福なのは、比較というものを奪って、幸福だと信じこませられているからである、と観た。彼等の幸福は、希望と信頼と無智とによってつくられている。批評精神は殆ど完全に喪失している。かかる精神状態は、文化を危険に導くものであると、ジイドは自身の結論の上に身構えて声を大にしているのである。
『プラウダ』の社説という文章は、ジイドのこういう観察と結論とを、簡明に且つ猛烈に評している。九月初めにはソヴェト同盟にたいする無条件の歓喜に浸っていた彼が、十月には既に中傷している。使徒パウロからユダヤ人サウルへの拙劣な転身をした。驚くほど破廉恥な諸矛盾をその本の中にさらけ出している。党及び政府の一般的な方針に反対する批判の権利だけを認めているジイドは、ソヴェト内でトロツキイストたちの大ぴらな声をきくことが出来ないのを悲しんでいるのか。頽廃的なブルジョア・インテリゲンツィアの典型的代表者であり、うぬぼれのつよい個人主義者であるジイドのブルジョア的良心がどうしても和解することが出来ない多くのものがソヴェトには在り、ジイドの怒りは反動的なブルジョアジーの無力な敵意を反映しているものである、云々と。
事実、ジイドのこのソヴェト紀行は世界のファシストの陣営から拍手をもって迎えられた。ファシストの新聞は彼を仲間と呼んで歓迎している。フランスの週刊雑誌『カンジット』はジイドをトロツキイストと呼んでいるということも肯ける。そして、これらのことはジイドがその前書の中で予見していたよりも深甚な反動としての影響を今日の人類の運命と文化の発達の上に明《あきらか》にマイナスなものとして、与えないとは決して云えない。ジイドとして、その結果については思うように思わしめよ、と云うには、余りに錯雑し、重圧のつよい世界の現状の裡に、彼もひとも生きているのである。
だが、『プラウダ』の批評のような表現でジイドが示した影響の政治的性質だけをとりあげられても、従来ジイドの人間的良心というものをそれなりに見て来た一部の人は、具体的な矛盾の本質までは闡明されず、納得しかねるのではあるまいか。
ジイドは、パウロからサウルへ転身しようと意企していたであろうか。もしまた、意図せざる結果として、客観的には人類の進歩性を後へひっぱる権力に利益を与えることになったのならば、それは如何なる意識下の力――作家ジイドが好んで潜入し、格闘するところの無意識の力に作用されてであるのか。それらのあらましが究明されなければなるまいと思うのである。
アンドレ・ジイドはゴーリキイの誕生におくれること一歳、ロマン・ロオランより三つの年下として一八六九年、パリに生れた。両親は富裕な清教徒であった。十一歳で父に死別した後、病弱な神経質体質の少年であるジイドは、凡ての悪行為、悪思考と呼ばれているものに近づくまいとして戦々兢々として暮す三人の女(母をこめて)にとりまかれ、芝居は棧敷でなければ観てはいけません、旅行は一等でなければしてはいけませんという境涯に生長した。
少年の間、彼は全くそういう窒息的な環境に馴らされ、些《いささか》の反撥も苦悩もなく過し、十六歳の年まで読書さえ母の監視つきであった。性的にも内気で無垢であり、従妹のエマニュエル只一人が愛情の対象であった。「一切金銭の心配からはなれ」息子の処女出版のために特別費を心がけている母の愛顧の下で、二十歳の彼は処女作「アンドレ・ワルテルの手記」を書いたのであった。
ジイドは、この「アンドレ・ワルテル」の中に、青年のうちに荒れ狂う肉的なものに対する戦いを表現しようとした。青年ジイドは自身の裡に目覚める野獣的な慾望の力と揉み合いつつ、これまで自身が身につけていたと思う教育の威力や倫理や教義の無力を痛感した。彼はその責苦を手記
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