の可能は見とおされている新社会の民衆の個性の発展の本質的意味を、明瞭に描き出し、横行している強権に対立するものとして示すことが出来なかったのは、ジイドの所謂《いわゆる》進歩性の本質を疑わしめる。新しい社会の建設過程は多岐、困難であるから、ジイドの観察が嘘ばかりだとは思えない。特に、民衆の個性、自発性の涵養の問題は常にソヴェトにおける文化問題の究明に際して最前面に出されているのであるから。彼は、それらの現象の本質の把握において誤ったことで遂に全体さえも誤ってしまった。
 更に、ジイドの混乱の心理的原因として、旅行記の中にうかがえる微妙な数行がある。それは不思議とも思われる一つの事実であるが、どういう訳かジイドは、その便利な文化的位置にもかかわらず、一九三五年以来の新方針というものを、何か、あるとおりに理解していないらしい。一九二一年の新経済政策当時に、観念的な革命作家たちが陥った混迷に似たようなものに捕えられているのではないかと思われる。これはどういう理由からなのであろう。旅行記の中には説明されていない。只そうらしく推察される暗示的な数行があり、その数行は、ジイドがフランスを出発する以前から、その主観の中で、建設の指導者たちと民衆とを切りはなしたものとして感じていたことをほのめかしているのである。ここにも、ジイドが新社会の批評に当って心理的に拍車をかけられた内奥の秘密が横《よこた》わっているのではなかろうか。
 ジイドは、新しい社会が克服すべきものを指摘した過程において、一層あからさまに自己の克服すべきものを示した。彼の旅行記に対する『プラウダ』の批評やその他の批評を、ジイドは、どう摂取するであろうか。これは自分の真実[#「自分の真実」に傍点]であると固執することによって「自分というものが自分が自由に動いたかどうかを了解し得る唯一のものであり、自分の責任を評価し得る唯一のものである」という個人の中に戻り、再び自分の前に空間のみを見ることは、ジイドの欲しないところであろう。ジイドは芸術家としての晩年において、一層自分という個性をより高からしめる実際の課題に逢着しているのである。[#地付き]〔一九三七年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本
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