ある文学というものはこの社会に対立する文学以外のものであるとは考えられない」と云っているのであるが、作家としての彼が一度、この内なる自己と外部との葛藤、相剋をとりあげるとなると、それは全く社会的背景から抽象された心理分析、フロイド風の或はドストイェフスキイ風の意識下のものの探求となり、作品に現れる人物が本質の窮極においては彼の内的所産であることは「狭き門」の頃とかわりない。ジイドは、人間は何を為し得るかをつきとめようとして日常の平安を拒絶する人間精神の冒険者として、人間の個性を本性におくばかりでなく、より高く高くと自己から脱せしめる力として、一九三一年のU・R・S・Sを見た。目的を達したならば更にそこを超えてゆくことを個性のモラルとし、自身の行動の原則としている彼の主観において、ソヴェトの社会が「なすべきことと、したいこととが一致している」ところであると見た。飽くことない探求者、個人主義者のアンドレ・ジイドは、人間を求めて集団生活にたどりついた。「正しく理解された個人主義は当然社会に役立つべきものだ。個人主義をコムミニスムに対立させるのは間違いである」と思うジイド独特の歩きつきで「U・R・S・Sに対する私の同情を声高く語」ったのであった。
作家ジイドの生涯を貫く最も著しい特質、純粋な誠実[#「純粋な誠実」に傍点]を自他に求める情熱への自覚的献身の欲求が、今度のソヴェト旅行では、かえってジイドの現実的理解を制約する力となっていることは、実に意義深い我々への教訓であると思う。旧世界の文化の裡にあって彼を宗教や家庭の因習に立ち向わせ、腐敗から彼の個性を清潔に保たせて来た力は、疑いもなく彼の主観の中に燃えるこの不安な程の純粋誠実[#「純粋誠実」に傍点]への情熱であった。この知的な武器の力を、ジイドは明らかに波瀾の多い生活からの獲物として自ら知っていた。ところが、一方に告白されているような政治的、経済的無識が彼の現実を見る目を支配しているのであるから、ジイドは基本的なところで先ず自己撞着に陥り、観念の中で、心象の中で、把握している新社会の存在が、その本質に於て、違った土台の上に建っている経済的・政治的・文化的現実であることが、具体的にわからなかったように見える。ジイドは、自分がコンゴーを観た観かた、どこでも、何にも目を奪われず、常に絶対に誠実であろうとする自己の主観的な常套
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