活[#「嘗てあった生活」に傍点]の幻を注ぎこまれて、中途半端な育ちかたをしたことは、ジャンにとって親を失ったより大きい客観的な不運である。地べたいじりがいやでたまらぬジャンの気持。農民の武骨な感情表現になれることの出来ないジャンの都会気質と或は決してなくはないかもしれぬ自分の出生にこだわった心持。これらのこともジャンの持つ負け札として見のがせない。
ただ、ジャンが機械工になりたくて仕方がなく、その方面では技術をさずけられ自信ももっているのに、教化所が一つの慣例のように農家へばかり委托する為に、ジャンの生活が破綻してゆく点を、私は心から哀れに思う。
アブデェンコの小説「私は愛す」を読んだ読者は記憶していられるだろう。国内の混乱時代に両親を失い、浮浪児となった主人公の少年サニカが、労働教育所の共同生活の訓練の間で、どのように人間としての愛を知り、技術を身につけて伸びて行くかという過程が、全巻を圧する簡明な美しさで描かれていた。そこには、ジャンの祖父、レフ・トルストイがぬけ出ることの出来なかった迷路にふみ入りながら執拗に求めていた人間性の明るさ、単純さ、健全な目的、希望等が、新たな社会的背景を前に溌剌と浮び出しているのである。心から、ジャンがそこにいたのであったらば、と思う。ジャンはこの手記を書かず、別種の思い出を書いただろうと思う。
私たちは、ジャンがこの手記を機会として機械工になりたいと云う自身の少年らしい希望を一日も速く達するような条件を勇ましく掴んでゆくことを願う。
そして、彼が分別らしく又気弱く、自分たちのような不幸な少年は他の世界への憧れや冒険心などをすてる方がよいのだなどと云っている消極性をふりすてることを希う。自身の告白を、故国への誤った悪評の材料につかわれるような恥さらしをせずに、生き抜いて欲しいと思うのである。
この「ジャンの手記」が私たちに与える教訓は決して感傷的な系図しらべにもないし、所謂浮世の転変への愁嘆にもない。妻としての良人への愛情。母としての愛情。又は所謂《いわゆる》家庭を守る、ということの真の意義、真に聰明な洞察は果してどういうところにあるのであろうかということについての、真面目な省察を促がされるところにあると思う。世俗的なかためかたでは、現実の推移がもたらす主観的な幸、不幸はふせげない。終極における愛とは、妻の愛にしろ、母の愛
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