たりまえの一市民のようであって決してそうでないさかさ成金のスリルを愉しむのは、むしろあたりまえであろう。人間の笑いの中には一般人にとってあたり前のことが、どのようにあたりまえでなく行われるかというそのさまを見て、ついふきだす場合がある。そこに近親感もある。日本の伝統的な皇族への感情の習慣は、ナンセンスそのものを通じて、偶像を否定しきっていない心理を温存させてゆく。笑いや優越感をとおって屈従に近づけられてゆくのである。
ヴァイニング夫人の「皇太子の教育」と題される文章が「皇太子殿下の御教育」と日本化された翻訳で『文芸春秋』に発表されている。このなかに彼にとって、日本にとって悲劇的な一節がある。皇太子が、教室で、将来何になりたいかという質問に答えて「私は天皇になる」と答えたという前後のくだりである。私は天皇になる――十五歳の少年にとって、これは何と自働的で無人間・無社会的、そして無歴史的な固定観念だろう。天皇というものの内容・機能の現実については何も知らされていない少年が空虚な絶対性をもって鋳出されて来ている。ヴァイニング夫人の筆致にも抑えられたおどろきがある。この悲しいあき壜のような絶対感、責任感が、どんな社会的実体でつめられてゆくか。ジャーナリズムが無関係だとは云えまい。風よけの大名屏風のように、そのときどきの折りたたみ工合でもち出されるものをただ手つだってかつぐだけでジャーナリズムの任務が果されているとは考えられない。
雑誌の企画にあんまり雷同性がつよい。これは、多くの人を不安にしている。真の原因として何があるのだろうか。日本の民主化を鼻であしらっていない編集者たちは、一冊の雑誌に右と左とをバランスさせて、さしひきゼロ、功罪なしと採料して貰うために苦心しているように見える。これは、ひとごととして見てすぎられるようなことではない。
昨今はいよいよ、事実を語る勇気と理性を求める意識が、せせらぎのように日本の人々の心に鳴って流れている。ジャーナリズムは金攻めの岩、自由攻め岩、民主攻めの岩々をよけながら難破しないで前進してゆかなければならない。ジャーナリストの眼には、ちらちら横に動くはやさのほかに、遠くのものを見とおせる航海者の視力と、ローリング・ピッチングにたえる脚の力がもとめられて来た。
[#地付き]〔一九四九年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十六巻」
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