運ばれた。それから暗い部屋に外科医と一緒に閉じこもるキュリー夫人の前に、うめく人を乗せた担架が一つ一つと運び込まれ、彼女の活動は幾時間も続くばかりか、時によれば数日費された。負傷者の来る限りマリアはその暗い部屋から出ずに働き続けた。
二十台の「小キュリー」の外に彼女の努力で治療室が二百作られ、二百二十班の治療班が組織された。彼女は交戦中フランス、ベルギーの三四百の病院をたえず廻った外、一九一八年には北イタリヤまで活動をひろげた。そこで彼女は放射能を持つ物質の資源を調査したのであった。専門の治療者も急速に養成されなければならない。ラジウム研究所でその仕事が始められ、三年の間に百五十人の治療看護婦が生れた。
この時二人の娘たちはもうパリに帰っている。十七歳のイレーヌは放射学を勉強し、ソルボンヌの講義もかかさず聞きながら、まず母親の装置の操作を受持ったが、やがて救護班に加わった。ラジウム研究所の治療者養成のための講義では、若いイレーヌも母と一緒に先生として働いた。イレーヌは年こそ若いけれども、この困難と活動の期間にキュリー夫人にとって二人とない助手、相談相手、友人として成長したのであった
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