後、パリの屋根裏部屋で火の気もなしに勉強していた女学生の熱誠が、髪の白くなりかかっている四十七歳のマリアの躯と心の中に燃え立っていたのであった。
 キュリー夫人は特別よい待遇を与えられたとしても拒んだであろう。人々が彼女の「有名さ」を忘れるよりさきにマリアがそれを捨てていた。けれども軽薄な看護婦たちが、自分から名乗ろうとはしない粗末な身なりのマリアを時には不愉快にさせる事があった。そういう時、彼女の心を温める一人の兵士の俤《おもかげ》と一人の看護婦の思い出とがあった。それはベルギーのアルベール皇帝とエリザベート皇后とであった。この活動の間にマリアは多くの危険にさらされ、一九一五年の四月のある晩は、病院からの帰り、自動車が溝に落ちて顛覆して負傷したこともあった。が、娘たちがそのことを知ったのは再び彼女が出発した後、偶然化粧室で血のついた下着を見つけ、同時に新聞がそのことを報道したからであった。彼女は昔からそうであったように、自分の身について起るかも知れない危険とか激しい疲労とか、その躯におよぼしているラジウムのおそろしい影響とかについて一言も口に出さなかった。
 マリア・キュリーをこの様な活動に立たせた力は何であったろう。日夜の過労の間に彼女の精神と肉体を支えている力は何であったろう。それは決して狭い愛国心とか敵愾心とかいうものではなかった。科学者としての自分の任務を、がらんとした研究所の机の前で自分に問うた時マリアの心に浮かんだものは、十年ばかり前のある日曜日の朝の光景ではなかったろうか。それはケレルマン通の家で、一通の開かれた手紙を間に置いて坐っているピエールとマリアの姿である。手紙はアメリカから来たものであった。瀝青ウラン鉱からラジウムを引き出すことに成功した彼らが、その特許を独占して商業的に巨万の富を作ってゆくか、それとも、あくまで科学者としての態度を守ってその精錬のやり方をも公表し、人類科学の為に開放するか、二つの中のどちらかに決定する種類のものであった。その時ピエールは永年の夢であった整備された研究室の実現も考え、また夫として父親としての家庭に対する愛情から、いくらかの特許独占の方法を思わないでもなかったらしかったが、結局は彼ら夫婦を結んでいるまじり気のない科学的精神に反するものとしてそのことを放棄した。わずか十五分の間にそうして決められた自分たちの一生の方向、それはピエールが不慮の死をとげて八年を経た今日、あれほどピエールが望んでいてその完成を見なかった研究所が落成されている今日、マリアの心を他の方向に導きようのない力となって作用したのであろう。
 ブロンドの背の高い、両肩の少し曲った眼なざしに極度の優しみを湛えている卓抜な科学者ピエールは、その父親と違って不断は時事問題などに対して決して乗り出さなかった。
「私は腹を立てるだけ強くないんです」と自分からいっていたピエールが、ドレフュス事件でドレフュス大尉がユダヤ人であるということのために無辜《むこ》の苦しみに置かれていることを知って、正義のために示した情熱。ノーベル賞授与式の時の講演でピエールが行った演説も、マリアに新しい価値で思い起されたろう。彼はその時次のようにいった。
「人は一応疑って見ることができます。人間は自然の秘密を知ってはたして得をするであろうか。その秘密を利用出来るほど人間は成熟しているであろうか。それとも、この知識は有害なのであろうかと。が、私は人間は新しい発見から悪よりも、むしろ、善を引き出すと考える者の一人であります。」
 マリアは愛するピエールの最後のこの言葉を実現しなければならないと思ったろう。科学の力が一方で最大限にその破壊の力を振るっている時には、ますます他の一方で創造の力、生きる力としての科学の力、それを動かす科学者としての情熱が必要と思われたに違いない。
 一九一八年十一月の休戦の合図をマリアは研究所にいて聞いた。嬉しさにじっとしていられなくなったマリアが、激しい活動で傷のついている例の自分の車の「小キュリー」に乗ってパリ市中を行進した気持は察するに余りある。
 フランスの勝利は、マリアにとって二重の勝利を意味した。彼女の愛するポーランドは一世紀半の奴隷状態から解かれて独立した。マリアは兄のスクロドフスキーに書いた。
「とうとう私たち(生れながらに奴隷であり、揺籃の中からすでに鎖でつながれていた)は、永年夢見ていた私たちの国の復活を見たのです。」しかしキュリー夫人は歴史の現実の複雑さに対してもやはり一個の洞察を持っていた。彼女はその喜びに酔わずに、さながら十九年後の今日を見透したように、続けていっている。
「私たちの国がこの幸福を得るために高い代価を支払ったこと、また今度も支払わなければならないことは確かです。」

 第二次大戦に
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