めていた気のゆるんだ教室でわっと泣き出した少女時代の思い出。また十七歳の若々しい家庭教師として貴族の家庭で不愉快な周囲に苦しみながらも勉強のためにいくらかずつの貯金をし、休みの時は近所の百姓の子に真の母国の言葉ポーランド語を教えてやったりしていた時代の思い出。ドイツに蹂躙されたときいたときそれはみな新しい思い出となってキュリー夫人の胸に甦って来たであろう。ドイツ軍に掃蕩されようとしているポーランドにはまだその外の思い出もつながれている。「マドモアゼル・マリア」が、その射すくめるようなしかも深い優しさのこもった灰色の目と、特徴のある表情的な口もとの様子などで、いかにも人目を引く才気煥発な教養高い十九歳の家庭教師となった時、そのZ家の長男カジミールとの間に結ばれた結婚の約束のその無邪気な若い二人の申し出はZ氏を烈火のように憤らせZ夫人を失心させるほど驚かした。カジミールは、さんざん嚇かされ、すかされてマリアとの結婚を思いあきらめたが、マリアは、その事で全く居心地の悪くなったZ家からも、契約の期間が終るまでは勝手に立ち去ることができなかった。それからワルソーで暮した月日。思いもかけず、パリにいる姉のブローニャから、彼女をパリへ呼び寄せる一通の手紙を受取った一八九〇年の早春のある日の心持。それらはその苦しさにおいても、ときめきにおいても、恐ろしい忍耐でさえもすべてはポーランドの土と結ばれているものである。そのポーランドに惨《むご》たらしい破壊が加えられている。ドイツの彼らが通過した後には何が残るでしょうというキュリー夫人の言葉は短い。けれども、そこには不幸なポーランドが、ヨーロッパにおけるその位置からいつも両面からの侵略をこうむりつづけてきていることに対する深い憤りと、決してそれに屈しきってはしまわないその運命についての彼女の意味深い回想がこめられているのであった。
八月二日にパリの動員がはじまると同時に、開設されたばかりであったラジウム研究所はたちまちからっぽ同様になってしまった。男の人々はそれぞれ軍務についた。研究所に残っている者といえば、心臓が悪くて軍務に適さない機械係のルイと林檎を三つ重ねたくらいの大きさしかない小使女きりであった。キュリー夫人は「万一の場合にはお母さんはこちらに踏み止まらなければなりません」といっていたその通り、パリに止まった。彼女は学者として
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